どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ 15:13 | |||
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十字架の主イエスの願い ガラテヤ5:13〜26 | ||||
今週は、教会の暦の上で、受難週。 いよいよ、イエス・キリストがエルサレムに入り、金曜には十字架を背負うことになるわけですけども、本来ならば、そういった箇所を取り上げるのにふさわしい日といえるかもしれません。 でも、ヨハネの福音書にある最後の晩餐でのイエス・キリストの説教を見ていったときに、今日のガラテヤ書のこの箇所の内容と重なる部分が多いんですね。 イエス様が語られたことは、大きく分けて、この2つです。 ・ あなたがたは、互いに愛し合いなさい ・ もう一人の助け主、御霊の存在 今日のガラテヤ書も同じです。実は、十字架を背負うイエス・キリストの想い、願いを受け止めるのに、ふさわしい箇所のような気がします。 5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 私たちは十字架のゆえに罪が赦され、自由を与えられたというわけですが、 もし、罪ある人間に自由が与えられてしまうとするならば、どうなるのかな…というと、何をするかわからないわけですよね。 そこで、私たちはルールや規則によって、その自由に制限を付けようとするし、それによって、正しい行動をさせようとする。それが普通の感覚だと思うんですね。 「自由だからといって、何をしてもいいわけではない」と考えるわけです。 ところが、パウロは、「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、」と書いています。 ということは、私たちに与えられているこの「自由」というのは、肉の働く機会、すなわち罪を犯してしまう可能性もある自由だというわけですね。 なぜ、そんな自由が与えられたのでしょう。 しかも、この自由は、イエス・キリストの十字架の犠牲と引き換えに与えられているんですよね。 どうして、イエス・キリストは、そこまでして、私たちに自由を与えようとしているんでしょうか…。 それが、この次の言葉「愛をもって仕えなさい。」ということになります。 「愛する」ということ。 ルールや規則、命令によって、正しいことはできるかもしれません。 でも、愛すると言うのは、どんなに命令されてもできないんですよね。 ただ、「愛しなさい」といわれて、愛せますか。 「愛する」というのは、自分の心から自然と湧きあがって来る、自由、自発的な想いであって、誰かの命令や強制によってはできないものなんですよね。 「愛は、お金で買えない」なんて言葉がありますが、命令によっても、規則によっても、どんな権力、権威、圧力、脅しをかけても、愛だけは買えないんです。 私たちが「愛する」「愛そう」とする時には、必ず「自由」というものが必要なんです。 5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 律法というのは、宗教的な教えではなくて、イスラエルという一国家の法律であったわけですが、西連寺さんに国家の法律の中で、愛するということが条文に組み込まれている法律があるか聞いてみたんですが、少なくとも西連寺さんが知る限りにおいては、ないとのことです。 もしかすると、どこかの国の法律の中には、「愛せよ」「愛しなさい」という法律があるかもしれませんが、極めて珍しいといえるでしょう。 つまり、普段、私たちが「正しさ」を考えるときには、「愛する」という観点は二の次、三の次になっているか、下手をすれば、取り除かれているということになります。 そして、教会の中でも、いつの間にか、この一語よりも、その他の「正しさ」の方が優先されてしまう危険性があります。 奉仕、献金、伝道、会堂建設…、どれも悪いことではありません。むしろ、正しいことです。 しかし、それら一つ一つが、命令や義務として求められてしまう時、自由を失った律法主義になってしまうわけです。 教会で、奉仕していないと、何となく教会員としてふさわしくないような感じがしたりとかね、教会で、伝道していないと、何となく劣っているかのようになったりとかね、 教会で何もしていないと、何となく居場所がない、いてはいけないかのようになってしまうわけですね。 でも、それら何一つ、何一つできなかったとしても、何一つしなかったとしても、その人が愛されない、その人を愛さなくてもいいという事にはならないんですよ。 誤解を恐れずにいえば、私たちは「正しい」クリスチャンになる必要はありません。 私たち人間は、正しい人間でありたがる、「自分は正しい」といいたがる、癖があるような気がします。悪いことをしても、自分は悪くないって言ってみたり、人のせいにしてみたり、言い訳してみたりするんですよね。 しかし、私たちが持つ正しさと言うのは、その「正しさ」によって、人を責めたり、訴えたり、正しさによって、人の悪口をいったり、退けてしまったり、正しさによって、人を支配しようとし、また場合によっては、人を殺すんです。 戦争なんて、そうでしょ。俺たちが悪いんだ!っていいながら、戦争している国なんてないんですよね。必ず、相手が悪い、相手を非難しながら、戦争するんです。 5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。 正しさだけで、人や物事を判断していく世界になれば、必ず、こういう事が起きてしまうんですね。これが、行ないによる正しさを求めてしまう律法主義の実情なんです。 でも、それは決して正しいことではない、所詮、罪人のいう「正しさ」なんですね。 イエス・キリストも、そんな人の正しさによって、裁かれ、十字架に付けられたといっても過言はないと思います。 当時の社会にあって、自称「正しい」人によって、退けられていた罪人を赦し、友となり、それがゆえに、非難されたんです。 なぜ罪を赦すのか、罪を赦してしまったらどうなるのか…、秩序が保てない、 その主張は、ある意味、正しいことだったんです。 それでも、罪人を愛し、赦していった結果が、あの十字架だったわけです。 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 愛するという事、これが神の求めている正しさなんです。 イエス・キリストの願いもただ一つ、私たちが愛しあうという事に他なりません。 そこで、ヨハネによる福音書の最後の晩餐での説教を見ていきたいと思うのですが、13章〜16章に渡って、イエス様が繰り返して教えていることは、まず、互いに愛し合うということです。 ■参考資料 gal08.pdf (アクロバットPDF 16.5 KB) ヨハネによる福音書15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。 戒め…といいますが、イエス様は、弟子たちを戒めによって、拘束してはいません。 弟子たちに、十字架まで従えとは言っていないんです。その証拠に、イエス様が捕まった時に、みな、逃げる事もできたんです。 あなたがたは、互いに愛し合って欲しい…。 まさに十字架を前にしたキリストが、弟子たちに託した想い、願いであるといえるでしょう。 ある人がいいました。「愛を教えてくれるのは、愛でしかない。」 イエス様であっても、ただ命令によっているわけではないんですね。 ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 イエス様は、その大きな愛を、十字架によって伝えてくれているんですね。 十字架の上で、イエス様はこう祈られた。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか、わからずにいるのです。」 これは、立派で正しい人たちのために祈られたわけではありません。 自分は正しいことをしているつもりで、自らの両手、両足に釘を打つ人たちのために祈られたんです。 十字架に釘を打つものとは誰か。 それは、私だ… 自分は正しいつもり、できているつもりで、人を裁いたり、非難したりする、私たち人間、罪人のために祈られたのです。 正しさよりも、愛を! 私たちに与えられている自由とは、私たちが愛し合うために必要で、目的があって与えられているものです。 それは、ある意味、肉の働く機会がある自由、失敗や過ちもある自由、罪を犯す可能性もある自由です。 でも、イエス・キリストは、私たちが愛し合うために、愛し合ってくれると信じて、自らの十字架との引き換えに、その自由を与えてくれています。 失敗するかもしれません、罪を犯すかもしれません、愛どころか自己中心に振舞ってしまうこともあるかもしれません。 そんなクリスチャンを、人は非難するかもしれません。責めることもあるかもしれません。 そうです。罪は罪、確かに罪です。 でも、そうであったとしても、この「自由」だけは簡単に捨ててはいけないし、奪ってもいけないのです。 それは、みなさん、一人一人が愛し合うために必要なものだから、 自分が、自分らしく、自分なりに愛するために必要なものだから、 それが、十字架を背負われたイエス・キリストの願いだからです。 さあ、そうは言っても、私たちが愛すると言う時、難しさを感じる事が多いと思います。 私たちの愛は、欠けだらけで、愛したいと思っても、愛せないことがあるんですね。 そこで、次に言われているのが、御霊という存在です。 5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 御霊といわれても、御霊って何でしょう…。 読み方を間違えれば、「おたま」になってしまって、おたまって何じゃあ、もっとわからなくなるという…。 そこで、やはり最後の晩餐でイエス様がどのように説明しているか見てみたいと思うのですが、イエス様もやはり、私たちが愛そうとしても、自分の力ではできないことをよく知っているんですね。そこで、もうひとりの助け主、御霊を紹介するわけです。 そこに、イエス様が教えられた御霊の働きについて、抜き出しておきましたが、こうしてみていくと、 ヨハネによる福音書 14:17 その方は、真理の御霊です。 14:26わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 15:26真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる。 共通して言えるのは、御霊は真理、すなわちイエス・キリストを指し示すということです。 私たちは、ついつい自分の考えが正しいと押し通そうとしたり、人の意見に流されてしまったりしますが、御霊は、自己主張はしないんですね。イエス様の愛であったり、イエス様の心だったり、イエス様について教えてくれるわけです。 5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 もし、ここだけを抜き出してしまうとしたなら、私たちは誰も神の国を相続しないことになると思います。やっぱり、行ないが悪くては、救われないんじゃないかという事になってしまうと思うんですね。 でも、もしそうだとすると、パウロが1章からこれまで、繰り返し主張してきた信仰による救いを全く否定してしまうことになるんです。 だから、聖書と言うのは、文脈に従って読まなくてはならないわけです。 5:22 しかし、御霊の実は、愛 しかしは、逆転の接続詞、恵みの接続詞、十字架の接続詞です。 御霊の実は単数形。愛そのもの。喜びそのもの。 肉の働きは複数形。自分の思うがまま、自分の欲しいがまま。 御霊によって、イエス・キリストに愛されていることを知るとき、私たちの心にも愛が芽生えてきます。 御霊によって、イエス・キリストに愛されていることを知るとき、私たちの心にも喜びがわきあがってきます。 御霊によって、イエス・キリストに愛されていることを知るとき、私たちの心には平安が広がってきます。 御霊によって、イエス・キリストに愛されていることを知るとき、愛に欠けた私たちの心にも、 寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制… あの人もイエス・キリストは愛している、この人もイエス様は愛している、 自分が愛されているように、隣の人も愛されている。 人を愛する気持ちがわきあがってきます。 5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 私たちは、本質的に確かに神の国を相続できない者、それにふさわしくない罪人です。しかし、その罪の裁きはみな、十字架の上に釘付けにされてしまったんですよね。 罪を犯す自分はまだ生きています。だから、今もなお、罪を犯してしまいます。しかし、十字架のゆえに、すでに死んだものとされた。 ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 私たちが神の国を相続するのは、古い自分、罪人としての自分ではないんです。罪人の自分は、この世で死ぬ時、完全に死にます。 ただ、イエス・キリストによって、新しく生かされている自分だけが、最終的に神の国を相続することになるんですね。 5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。 私たちは、一人一人、与えられている賜物も、能力も、性格も、個性も違います。誰一人として、同じ人はいません。 御霊によって結ばれた愛と、個性が結び合わさって、様々な働きが生まれます。 だから、できることもあるし、できないこともあります。得意なこともあるし、苦手なこともあって当然です。その違いを、お互いに認め合うという事が必要なんですね。 ある点が優れているからと言って、ある点が劣っているからといって、いどみ合ったり、そねみ合ったりしても、それは虚栄でしかありません。 もし、私が、奏楽やれといっても、はっきり言って苦痛ですよ。 だれが苦痛かと言えば、皆さんが苦痛と言うか… 以前いた教会では、賛美リードやってくれと言われまして、やったはいいけど、3回でお役御免、降板になりましたけどね。 愛は動詞だって言われることもありますが、私たちは、目に見える行為だけを見て、愛があるとか、ないとか、判断してしまう事があります。 でも、どんなに愛する気持ちはあっても、何一つできない事だってあるんです。それは、そのために必要な賜物、能力がない時です。それは、愛がないわけではないんですよね。 愛は動詞ではなく、動機です。行ないはその結果にすぎません。一人一人の個性や、能力と結びついて、いろいろな形になってあられてくるんですよね。そのためにも、自由が必要なんです。一人一人は各器官。キリストの体なる教会です。 同じ一つのことをするにしても、ある人にとっては、荷の軽い、楽なことかもしれないけど、ある人にとっては、重荷になってしまうことだってありますよね。 また、もし、一人の人にすべての負担がいってしまえば、どんなにできる人であっても、当然、重荷になってしまいます。 そこで、重荷を負いあうという事も大切です。 ところが、日本人は、お願いされると悪いなと思って断りきれなかったり、良くも悪くも完ぺき主義で、無理して頑張ってしまったりする傾向が強いんですね。 これから土地購入という大きなビジョンもありますが、「会堂建設は牧師の命取り」だといわれているくらい、重荷になって潰れてしまう人を出しやすいんです。でも、この中の一人でも欠けてしまうのであれば、その他、どんなに立派で正しいことであったとしても、それは絶対にイエス様の御心ではありませんから。 ですから、潰れる前に、重い時には、重いですと、ぜひ言って下さい。私には出来ないと思うときには、ぜひ「私には無理です。できません」と言ってください。 それは、決して、恥でも、悪いことでもないんです。行ないは、あくまで結果。求められているのは愛です。 どれだけできるか、できないかが勝負ではありません。 たとえ、自分がどんなに小さく、弱く、劣っていると思えたとしても、 この自分でさえもキリストが愛してくれると言うので、 自分なりに、自分らしく、自分にできることをもって、 神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する。 キリストの愛と赦しの自由の中で、 私たち、一人一人が、一人一人らしく、3つの愛に輝いて生きる。 これが、十字架を背負われたイエス・キリストの願いなのです。 |
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