命がけの福音/ガラテヤ2:1~21

ガラテヤ書の3回目になります。
1章から続いて、2章の10節までは、パウロの使徒職と福音の正当性を訴えています。そして11節からいよいよ律法主義との対決、福音の真理を訴えていく、パウロのボルテージも上がっていきます。

2:1 それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。

1章では、パウロが託された福音は、人によるものではなく、イエス・キリストと父なる神によるもの、余計な人物とは接触していないことが強調されています。
ところが、この2章ではペテロやヤコブといったエルサレム教会の重要人物も承認済みであること、いわば人間的な根拠も持ち出しています。

異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。

パウロにしてみれば、神によるものであれば、人間がなんと言おうが関係ないくらいの勢いなのですが、パウロが勝手にそう思っているだけ、独りよがりということもあるわけですね。そういった反論の余地を与えないためにも、念には念を入れている様子が伺えると思います。

2:3 しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
2:4 実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。

割礼そのものが問題ではないんです。ユダヤ人が伝統的、文化的に自由意志で、割礼を受けることは別に問題ではありません。使徒の働きの16章では、パウロ自身、ユダヤ人に考慮して、ギリシャ人のテモテに割礼を受けさせたことが記録されています。

問題なのは、信仰だけでは救われない、信仰プラス割礼が必要であるという考え方です。そのために割礼という行ない、特定の行為が、強いられてしまうことです。
パウロは、信仰プラス割礼、信仰 プラス・アルファによる救いの【プラス アルファ】を警戒したわけですね。

割礼をはじめとする律法は、ユダヤの長い歴史の中で守られてきたことですから、いきなり割礼が不要であるといわれても、頭がついていかないユダヤ人がいても不思議ではありません。
本当に、信じる信仰だけで救われるんだろうか…。
割礼くらいは必要ではないか。安息日は守らなくていいのか。行ないも必要ではないか。
そういう不安が、どうしても残ってしまうわけですね。
そこから、割礼も必要であるという主張する人達も生まれてきたわけです。

また、そういった不安や恐怖に付け込む形で、割礼や、その他の特定の行為が強いられてしまう。
パウロは、その有様を「奴隷」と表現して警戒しているんですね。

これは、今日で言うところのカルト、マインドコントロールも全く同じ原理です。
神の裁きや不安をあおられて、礼拝や献金、その他の行為が強制されていく。
毎週礼拝に出席していないと神様に裁かれるのではないか…とか、献金や奉仕をしていないと仲間はずれにされるのではないか…、そういった不安や恐怖があって、礼拝に出て、献金や奉仕をする。でも、礼拝したくて、礼拝しているわけではないんですね。裏にあるのは、あくまで不安と恐怖なんです。

ガラテヤ教会は、いわばマインドコントロールの罠にはまり、カルト的な状態に陥っていたわけですね。

2:5 私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

私たちの教会が、似たような罠にはまらないという心配が全くないかというと、そういう保証はどこにもないように思うんですね。その罠にはまらないためには、「信じる信仰によって救われる」という福音の真理を、私たち一人一人がちゃんと理解して、しっかりと保つ必要があるんですね。

エルサレム教会に行ったとき、テトスは割礼を強いられることはなかった。
おもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。

私が伝えている福音が間違いないことも、割礼がもはや不要であることも、私が使徒であることも、総本山、エルサレム教会で承認済みである。
ヤコブやペテロも、ヨハネも認めていたことである。

信じる信仰によって救われる…この福音に間違いはない

ところが、ケパが…
いよいよ、律法主義との対決です。

ところが、ケパが、アンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

ユダヤ人には、律法で食べてはいけないものが決められていて、いかとか、たことか、豚肉だとか、一切、食べないんですね。
ペテロは、アンテオケに来ていたとき、異邦人と同じものを食べていたんです。
昨日、ちょうど我が家の夕飯は豚肉でしたが、豚肉おいしいですね…とか言いながら、ペテロも豚肉を食べていたのかもしれません。
ところが、ユダヤ色の強い割礼派の人が来たときに、その食卓から離れていったんです。

あたかも、私は異邦人のようでありません、豚肉など食べていません、そういう振りをしたんですね。

ユダヤの食事そのものが問題ではないんですね。
律法で禁じられているものは、傷みやすい、食あたりを起しやすい、そういう食べ物です。私たちも豚肉はよく火を通すように、冷蔵庫などない当時にあって、そういった食べ物を避けるというのは、ある意味理にかなった話でもあるんです。

しかし、律法の行ないによって、上下が出来るわけではありません。割礼と同じように、食べ物によって、神に喜ばれるとか、汚れるとか、クリスチャンとしてどうかが決まるわけではありません。

でもペテロは、ユダヤ人からの攻撃を恐れるあまりに、その食卓から身を引いた。そればかりか、パウロと行動を共にしていたバルナバまでもが偽善に引き込まれた。

たかだか食事のようですが、ユダヤ人は、単に豚肉を食べないだけではなく、豚肉を食べるような異邦人とは一緒に食卓につきたくない、それだけでも汚れる、そんな差別的な感覚があるんですね。ユダヤ的な食事をしていない異邦人があたかもワンランク下かのような、結果として、異邦人との交流までをも否定してしまっていたわけです。

そこで、パウロは猛然と抗議するわけです。
パウロは、今でこそ有名ですが、十二弟子でもない下っ端の使徒です。その下っ端が、エルサレム教会のトップに面と向かって抗議するというのは、ただごとではありません。

2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

ペテロは、言葉で、ユダヤ人の生活を強いたり、信仰による救いを否定したりしたわけではありません。
しかし、ペテロたちの行為が、あたかも律法を守ってないことが不完全であるかのような、律法を守ることが必要であるかのような錯覚を起させたんですね。

私たちも、この点には注意したいところだと思います。
およそ、およそ一般的なキリスト教会であれば、救いの条件を聞かれれば、信じる信仰によると答えると思います。でも、一方で、礼拝や献金、その他の行為によってクリスチャンとしてどうかが判断されたり、「守らなければならない」的なプレッシャーが与えられたりするということが事実として起りうるということです。

2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

一見すると、ユダヤ主義的な発言のようですが、パウロ自身がそうだったように、ユダヤ人であったとしても、だからといって罪人ではないということではなかったんですね。

2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

ユダヤ主義者の前で、律法を否定するようなことを言うのは、まさに命がけ。死刑に値します。しかし、パウロは、キリストの使徒として、命を懸けて、宣言したんですね。
これは福音の大憲章、丸暗記してもいい御言葉だと思います。

もし私たちが、自分の行ないによって義と認められる、正しいと認められようとするならば、律法の全てを守る必要があります。
ところが、そんなことはできないし、ありえないんですね。

日本にも、いくつも法律があるわけですが、例えば道路交通法、どこまで把握して、守っていますか。ある教習所で、ベテランのドライバーを集めて、運転免許を取る時の試験を受けさせた例があるんですね。だいたい正解率は7割くらいだそうです。
70点くらい取れれば上出来かな…って思うじゃないですか。でも、本来、免許取るには90点以上必要なんですね。
しかも、○×式での試験ですからね。全くわからなくても、確率的に50点は取れる試験なんですよね。すくなくとも、3割は、違反していても気づいてもいないということになりますよね。

まして、聖書の教えをどこまで把握して、事細かに覚えていますか。分からないですよね。

それなのに、たかだか割礼一つで、自分を正しいとしてしまう。
ユダヤ的な食事一つで、自分は正しいとしてしまう
礼拝し、献金し、奉仕をしたくらいで、自分は正しいとしてしまう。

もっと、ありえない。それがいかに、自己満足的で独善的か分かると思います。
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。

信じる信仰だけで救われるというと、罪が野放しになるかのように思われがちですが、そうではありません。

2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

罪の赦しといっても、許可の許ではありません。罪って何か…言えば、極々簡単に言えば、してはいけないことですよね。もし、許可されていることであれば、罪とは言わないわけでしょ。罪は、罪。でも、そのしてはいけないこと、やるべきではないことをしてしまうところに、私たちの罪の根深さもあるんです。
キリスト・イエスを信じるということは、まず私たち、自分自身の罪を認めるということから始まるんですね。
もし、自分の罪が分からなければ、罪の赦しを求めることなんて、ありえないですよね。

2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。

でも、それをあれをしてはいけない、これをしてはいけない…と、再び律法的な規制によって罪を犯さないようにしようとするなら、それこそ違反者だというわけです。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

よくこの箇所は、自我が死ぬ、エゴが死ぬ、クリスチャンになってしばらくして、エゴを捨て、神に全てを捧げきる信仰の極意か、特定の人だけが到達出来る到達点かのように語られることがありますが、そうではありません。
「私」という言葉は、ギリシャ語でエゴーですから、まあ確かにエゴが死んだとパウロは言っているわけですが、単純に「私」という意味、パウロ個人の信仰告白、その中身は私たちの信仰告白と変わりません。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

律法主義の世界では、自分が罪人であるということを認められません。罪人だということを認めようものなら、その時点で自分自身の存在も否定されてしまうからなんですね。神中心と言いながら、実に自己中心的な世界。自分の努力や行ないによって必死に認められようとしながら、実は、自分の本当の姿を隠し通さなければならない世界。仮面をかぶり、偽善に生きる世界。どんどん自分を失っていく世界。それが律法主義の実情です。
パウロも、律法主義の世界に生きていましたが、結局のところ、律法によって裁かれるべき罪人でしかなかった。あのダマスコ途上での出来事を通して、パウロは、自分の行ないや努力では、決して正しくありえない、死すべき罪人であることを認めざるをえなくなったのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

キリストの十字架の身代わりの死によって、私は、罪人としてすでに裁かれ、死んだものとされた。
律法による自己中心から、信仰によるキリスト中心へ。
自分の行ないによって生きようとするサウロではなく、キリストの愛と恵みによって生かされているパウロが誕生したんですね。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

この「私を愛し」、キリストの愛によって生かされている…。ここに、クリスチャンの生き方、行ないもあるとおもいます。
イエス・キリストの愛を受け止めることが出来た時、心に何の変化もないかということはないんですね。そんなイエス様のことを礼拝したい、そんなイエス様のことを賛美したいという気持ちや、この貧しい心にも、多少なりとも愛なり、やさしさなりも生まれてくるんですね。そこから自然と出てくる行動、行ないがあるはずなんです。

パウロが使徒として異邦人に伝道したのも、キリストの愛に迫られて、自発的にでてきたものなんですね。結果としてあれだけの大きな働きをすることになったわけですが、律法的な命令によるものではなく 全ては信仰によるもの。救いが先、行ないはあと。結果に過ぎません。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

無駄死にです。
犬死にです。

パウロの叫びは、ここにこそあります。
残念なことに、最近また、私の知り合いの方が行っている教会で、今、カルト的な状態になっている話が伝わってきまして、心を痛めているわけですが、「クリスチャンとしてこうでなくてはならない、ああでなくてはならない、そうでなくては神に喜ばれない、それではクリスチャンとはいえない…」かのように語られてしまう。奥さんの方がついていけなくなって、別の教会に移ったところ、「無理してでも、引っ張ってでも、夫婦そろって同じ教会に来るべきだ。」移った先の牧師先生のところには「羊泥棒!」と電話がかかってくる…。そんな話も現実としてあるんですね。
どうしてそんな風になってしまうんだろと思うんですが、律法主義との戦いは、2000年前の話ではなく、2000年間、今も続いているわけです。

信じる信仰によって救われる…。
信じるだけというと、何か物足りないような、簡単すぎるかのような気もするのかもしれません。多少なりとも、自分の努力か行ないがあった方が、安心できるというか、いかにも救われていて、いかにも信仰的で優れているかのような気がするのかもしれません。
また、信じるだけというと、誰も何もしないかのような、罪が野放しになるかのように思うのかもしれません。

しかし、私たちの罪は、別にただで赦されているわけではないんですね。
イエス・キリストの、あの十字架がによって、成し遂げられたこと。命を懸けて成し遂げてくれたことなのです。それは、皆さん一人一人を神がどれほどまでに愛しているのか、神の愛の現われでもあるわけです。
もし、信仰の他にプラス アルファーが必要だというのなら、十字架は不完全だ、キリストの十字架は無意味だったということなんですね。

キリストの命のかかった福音。命がけの愛です。
その福音を、人間的な浅知恵で持って曲げてはいけないのはもちろんですが、本当に信仰的であるというのは、クリスチャンとして正しくあることよりも、まず、その愛を本当に受け止めていく、真実に受け止めていくことではないのでしょうか。

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