私の誇り/ガラテヤ6:1~18

今日でガラテヤ書の最後になります。
ざっと、おさらいすると、ガラテヤの教会には、偽教師がやってきて、信じる信仰だけでは救われない、割礼も必要である、モーセの律法、即ち、旧約聖書に定められた正しい行ないをしなくてはならない…という教えが入り込み、そう信じてしまいました。

そのガラテヤの教会に、パウロは、NO!と叫ぶわけですね。
律法を完全に守りきれる人などいない。
ただ、キリストを信じる信仰によって救われる。
そのためにこそ、キリストの十字架があったわけです。

クリスチャンの行ないというのは、そのキリストの愛と赦しを受けて引き起こされる自由、自発的な愛によるものだというわけです。

そして、この6章では、「私たちが愛する」という視点に立った時に必要な実践的なアドバイスから始まっています。

6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

私たちは、ある意味、人の過ちを正すのは、大好きかもしれませんね。
自分の物差しで人を測ってみては、あの人は正しいとか間違っているかとか、ここがいけないとか、こうすべきだとか、言ってしまいがち…というか、つい言っちゃいますよね。

でも、ここでいわれているのは、まず、「御霊の人であるあなたがたは、」
つまり、イエス・キリストの心を心として、柔和な心をもってということ。
この「柔和な心をもって」というのが、なかなかどうして難しいことかもしれません。
私たちの場合は、どちらかといえば、肉なる人が、湧き上がる怒りの心をもって、人を正そうとしてしまうんですよね。

私自身も、父親譲りの短気な側面がありまして、「頭に血が上る」って、言葉があるじゃないですか。まさに、瞬間湯沸かし器的に怒りの感情が湧き上がってきてしまうことがあるんですね。
私たちは、その怒りのエネルギーを容赦なく人にぶつけてしまいがちなんです。また、それが正義だと勘違いしてしまうんです。

しかし、イエス・キリストだったら、どう考えるだろう…
イエス・キリストだったら、なんて言うだろう…
そういう視点に立って、冷静に考えるとき、決して、ただ怒りをぶつけてしまう事が正しいことではない事がわかると思います。

このガラテヤ書で、誰が一番怒っているかといえば、実はパウロ自身でして、その怒りを懸命に抑えながら、書いている事が伝わってくると思います。

聖書のいう「正してあげる」というのは、愛する心を育てるということになります。怒りでもって厳しく縛り付けていても、正しいことはできても、愛する心はなかなか育たないんです。

どんな人でも、必ず、過ちや失敗、欠点もあるはずです。
でも、そこに、愛する気持ち、愛する心があるかどうか…、その気持ちを受け止める必要があります。その愛する心があるかどうかは、自分自身にも、絶えず問われていることなんですね。
もし正しさばかり求めてしまい、愛と赦しの心を忘れてしまったとしたなら、教会はもちろん、社会全体は大変ギスギスした人間関係になってしまうと思います。
私たちが、ただ自分の視点、自分の価値観、自分の正しさをもって、人を裁いてしまうなら、実は、自分自身が過ちに陥っていることにもなるわけです。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

私たちは、一人一人、持っている能力が違う、個性が違う、長所や短所、得意なこともあれば、苦手なこともある、みんなが、同じ事を同じようにできるわけではありません。
それぞれが、得意とするところ、自分にできること、自分が持てる分の荷物を持っていく時に、教会全体でようやく一人前になるかどうか…、一人で、一人前ではないんですね。

6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

まあ、私たち一人、一人は、決して誇れるような、大したものではないんですな。

6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

なんだか重荷、重荷、といわれているので、重たい気分になってしまうのですが、重たくはないんです。…っていうか、重たい荷物は、あまり無理せず降ろしてください。それは、持てる人が持てばいいこと。一回で駄目なら、二回、三回に分けてもいいんです。
とにかく、それぞれが、自分が持てる分だけの荷物を持っていくときに、持った分だけ、必ず全体の荷物も軽くなっていくんです。

6:6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。

どうしても、御言葉を教える人と教えられる人というと、先生と信徒みたいに、上下間ができてしまうのですが、私は、これがどうも嫌いでして、私だって罪人の一人、御言葉を教える人も、まず自分が教えられなければ、教えられないんです。
今、教会学校で教師をしている人は、まさに実感していることと思うんですが、逆に、子供たちから教わることも多いと思うんですよね。
教える人には教える人の役割、教えられる人にも教えられる人それぞれの役割があります。決して、上から下への一方的な受身ではないんです。御言葉を一緒に学び、よいものをわけあって、一緒に成長していくことなんですね。

6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

信仰による救いという時に、どうせ赦されるなら、罪を犯しても構わないと勘違いすることかもしれません。でも、罪を犯して幸せになれるかというと、決してそうではないんですね。
人を殺して、幸せになれるか…っていうと、なれないんです。
人のものを盗んで、幸せになれるか…っていうと、なれないんです。
人のことをねたんだり、うらんだり、怒っていながら、幸せか…というと、決して幸せではないんですよね。だって、そうじゃないですか。怒っているんだから。
それは神の裁きでもなんでもなくて、自業自得、身から出た錆なんですね。

でも、もし人を愛することができたなら、それって、実は、自分も幸せ…なんですよね。自分が愛しちゃっているんだから。私たちは、自分が愛される事によって幸せになれるかのように考えますが、実は、自分が愛せた方が幸せなのです。

6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

私たちが、いくら良いことをしたとしても、必ずしも、それに見合った見返りや評価があるとは限らないと思います。そればかりか、逆に、誤解を受けたり、何か悪く思われたりしてしまうことすらあるわけですよね。
だとすると、何だか、むなしいような、自分ばかりが損のように感じてしまうこともあるかもしれません。でも、その姿を見てる人は、見てるものです。

失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

例えば、信用や信頼がそうだと思うんですね。信用や信頼というものは、1日では築けません。今、列車事故でJR西日本が叩かれていますが、あそこで失った信用と言うのは、おおきいと思います。その信用を回復していくには、まさに一つ一つ善を行なっていくしかないのですが、それは決して、損という事ではないはずです。むしろ、それを怠ってきた時に、取り返しのつかないような大きな損害を出してしまったわけですね。

6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

…と、薦められているわけです。

さて、これで、最後のまとめになるわけですけれども、本当は講解という時に、もっと細かいところを見ていけば、いろいろなことが学べるのかもしれません。しかし、私は、1回のメッセージで、できるだけ長く聖書箇所をとるようにしてきました。なぜならば、あまり細かいところに注目してしまうと、本当にパウロが伝えたいこと、文脈や全体を見失ってしまいがちだからです。
実際に、パウロがこのガラテヤ書で本当に伝えたいことというのは、それほど多くはありません。

6:11 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。

パウロは、目が悪かったので、多くの場合、代筆してもらっていたようですが、この最後に来て、自らの手で書き、なりふり構わず大きな字で最後の訴えをします。これが本当に、パウロが伝えたい思いが凝縮された箇所といえるかもしれません。

6:12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
6:13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。

割礼を強制する人たちは、ユダヤ教の背景がある指導者たちだと思われますが、かつてパウロが迫害していたように、割礼を否定してしまうと、自分たちまでが迫害を受けたのかもしれません。
神様のため、神様に従うといいながら、要は自分自身のためなんですね。私たちの指導するクリスチャンは、立派に割礼も受けているすばらしいクリスチャンです…というふうに、誇りにできたんでしょうね。

一方で、ガラテヤの教会でも、他のクリスチャンにはない「割礼」を施すことで、自分たちは一歩進んだクリスチャンであるというふうに誇りに思えたのでしょう。
でも、それは大きな大きな落とし穴になるんです。

聖神中央教会での事件は、みなさんも多かれ少なかれショックを受けた面もあるかもしれませんが、あの問題も、実に、このガラテヤ書に書かれていることが守られていれば、起こり得ないことだったんです。
牧師の性的な問題の方に目が向きがちですが、普通だったら、あんなことしたら、一発で御用でしょ。それが、なぜあのようなことが、10年以上も隠されてしまったのか…。

聖神中央教会も、最初から、いきなりカルトだったわけでもなく、牧師の好き勝手にできるわけではないんですね。はじめは、信じる信仰による救い、行ないによるのではないと説いていたんです。
ところが、あるときから、少しずつ少しずつ、
教会から離れるのは、信仰があるとはいえない。
伝道しないのは、信仰があるとはいえない。
献金を惜しむのは、信仰があるとはいえない。
すべてに従えないのは、信仰があるとはいえない。神に捨てられる。

そうやって、徐々に徐々に、福音が曲げられていってしまったわけです。やがて牧師の言う事すべてに有無を言わずに従わなければ、神に捨てられ、地獄にいくかのような価値観が築かれていっていったです。そして、あのような犯罪も行なわれてしまった…。どこに端を発しているのかといえば、「信じる信仰による救い」という1点が崩された時に、始まったことなんです。

「信じる信仰による救い」というと、あのような牧師も赦されてしまうのか、そう考える人もいるかもしれません。
しかし、逆なんです。
「信じる信仰による救い」が貫かれていたなら、少女も、親も、周りにいた信徒も、牧師に嫌だ、先生、それは間違っています!と言えたはずなんです。あの牧師であっても、何度も同じ過ちを繰り返さずにすんだかもしれないのです。
ところが、地獄の恐怖で縛られて、親であってもそれが言えない、言えなくさせられてしまったんです。いや、実際には気づいて抗議した人もいたんですが、時すでに遅し、すでに牧師の支配体制が確立していて、周りから非難され、追放されてしまうわけです。

これは、決して人事、異端や新興宗教で起きた事件ではなく、私たち「正統的なキリスト教会」で起きた事件として、私たちは捉える必要があると思います。そこで、どれだけ多くの人達が傷ついたか、まさにキリストの羊たちが痛んでいるわけです。
それが、たとえ性的な犯罪でなく、割礼であっても、伝道であっても、献金であっても、礼拝出席であっても、もし同じ手段で行なってしまうとしたなら、質的には同じ体質を抱えることになります。
ガラテヤの教会は、まさにその入り口に入ってしまったのです。

日本の教会では、まず誇りになりやすいのは、数字、信徒の数かもしれません。その次が会堂です。私たちの教会も、土地購入、それから会堂建設へと進むことになるかと思いますので、注意しなくてはならないんですが、特に、会堂は目に見えるものだけに、ああ立派ですね、すごいですねとか、評価をしてしまいやすいし、自慢にもなりやすいんです。

しかし、何人集まっているか、どんな会堂を建てようが、それでは教会のよしあしは絶対に決まらないんです。
たとえ、教会にたった一人、たった一人だったとしてもですよ。もし、その一人が、本当にイエス・キリストの愛に触れられて、救われるとしたならば、その教会や牧師の働きは、その一人のために存在する価値があるんです。
その価値は、どのくらい価値かというと、イエス・キリストの命と同じくらい尊い尊い価値があるんです。イエス・キリストは、その一人のためにも死んでくれたんですよね。その一人を愛する、その一人の存在を大切にする、その価値観が教会の中で保たれているかどうかなんですね。

6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

有名な言葉ですが、有名な割には、もしかすると本当のところは理解しにくいところかもしれません。
パウロはここで、「あなたがたには…」とはいわず、「私には…」と言っています。
すなわち「誇ってはいけない」という禁止の命令ではなく、「私自身は、誇れるようなものではない。誇りにしてはいけない」と、まるで自分に言い聞かせているかのようです。
指導者としての誇り、「私」の建前、面目、手柄、自慢のために、福音の真理を曲げてしまう、キリストの恵みを見失なわせてしまう、キリストの羊が迷ってしまう、そんなことは決してあってはならないのです。

パウロは、異邦人宣教という点では、誰よりも多くの働きをし、多くの人に伝道し、多くの教会を築いてきた人です。人からもそれだけの評価も受けていたでしょうし、実際に、十分に誇りできるものがあったわけです。その反面、逆に、ねたみか、そねみか、パウロは偽者だ、使徒ではない、目が悪かったので、あれは神に祝福されていない証拠だとか、悪く言う人もいたわけです。

でも、パウロは決して、自分の働きを誇りにしようとはしなかった。
 私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない。
たとえ、どんなに立派な働きをしても、どんなに優れたことをしたとしても、それで自分が上がったり下がったりしない。自分もまた、イエス・キリストによって救われた罪人の一人に過ぎない。
使徒として、あるいはクリスチャンとしての存在の根拠、ただキリストの十字架だけにあるということです。

実際、パウロは、本来、使徒と呼ばれる資格はありませんでした。
今、小林さんが取り上げている「使徒の働き」でもでてきましたが、初代教会が打ち出した使徒としての条件は2つ、イエス・キリストと活動を共にしていたこと、そして復活の証人であるという点でした。
しかし、パウロは、このどちらにも当てはまらないのです。それどころか、キリスト教とは相反するバリバリの律法主義者、キリスト教会を迫害していた張本人だったわけですね。

そんなパウロ、当時サウロという名前ですが、ダマスコにある教会を迫害する途中の出来事、
「サウロよ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか、わたしはあなたの迫害するイエスである。」
まさに、そこで今日も、教会を愛し、教会を命がけで守る、十字架を背負うキリストの存在を知るわけです。

教会を迫害するような、この「私」をも愛し、この「私」にも愛する心を与えてくれたのは、
あのカルバリの十字架を背負ったイエス・キリストに他ならない。
今のこの「私」という存在、
パウロ、使徒があるのは、イエス・キリストの十字架の故である。
この十字架こそが私の誇り、この「私」がキリストに愛されているということこそが、私の誇れるもの。

ガラテヤ書1章1節の宣言。
人々によるのではない。特定の教団、教派、教会によるのではない
人によるのではない。大使徒ペテロや、ヨハネ、まして私個人の力ではない。
十字架を背負われたイエス・キリストと、彼を死人のうちからよみがえらせた父なる神とによって立てられた。
パウロ、使徒。

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

よく、「そんなことをしていては、クリスチャンとして証にならない」とか「こんなことをしてはクリスチャンとして駄目だ」みたいな言い方をしたり、聞いたり、考えたりもするかもしれません。
確かに、世間一般、人の評価の仕方は、行ないによるのかもしれません。でも、あまり、その評価や価値観に惑わされてしまうと、行ないによって、やっぱり人や世間から、自分がクリスチャンとして認められようとしてしまうんですね。それは、割礼が、その他の行為に変わっただけなんですよね。その行ないは、証ではなく、誇りになります。
誇りと劣等感は表と裏、表裏一体だと思います。
実は、こういったところから、福音の真理は曲がっていってしまうんです。
しかし、私たちがクリスチャンである証、存在の根拠は、あくまでイエス・キリストの十字架なんです。

6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

人と比べて何ができるとか、人がどう評価してくれているかとか、関係ありません。
ようは、自分の目の前にいる一人の人に対して、自分にできることをする、ただ愛することだけなんです。

とはいえ、失敗もします、悩みもします、罪も犯します、限界だらけです。
しかし、誇りにならないような、小さな小さな「私」でも、
この「私」を、この「私」という存在を、
イエス・キリストは命を懸けて愛してくれているというので、
「私」が、「私」らしく、「私」なりに
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…

それは、本当に本当に、小さなことしかできないかもしれません。
しかし、たとえ、自分がどんなに小さく弱く惨めに思えたとしても
この「私」をも、イエス・キリストが愛してくれるというので、
この「私」という存在を喜び、命を輝かせて生きることができるとしたなら、
その「私」という存在自体が、立派な生きた証になります。

イエス・キリストが愛してくれる、この「私」という存在を大切にする。
それは、自分自身のことでもあるし、ここにいる一人一人の「私」という存在でもあるんです。

6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
6:17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。

「信じる信仰によって救われる」、このキリストの福音を守るのは、指導者云々、誰が問題ではない、イエス・キリストの愛を受けた「私」という存在、私たち一人一人が大切にしていかなくてはならない責任があるんですね。

と同時に、聖望教会は、ぜひイエス・キリストが愛するこの「私」という存在、「私」という一人一人の存在を大切にする「私」の集合体であって欲しいと思うのです。

なぜならば、イエス・キリストの十字架の命を懸けて愛された「私」だからです。

6:18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

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