主の住まいとされるところ/詩篇22篇

教会では、非常に多く「賛美」、神を褒め称える歌を歌うわけですが、私たちは、なぜ賛美をするんでしょうね。単純に答えてしまえば、神様が素晴らしいから…ということになりますが、私たちの人生の中には、いろいろな事があって、いいことばかりではありません。時には、賛美できないって日だってありそうですよね。

私たちは、どんなところにいる神様を思い描きながら、どんな神様に賛美しているでしょう…。今日は詩篇22篇を通して、賛美について考えてみたいと思います。

22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
22:8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
22:11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。…

3節の 「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」というのは、よく賛美をリードしてくれる人たちがよく使う御言葉の一つかもしれません。
「賛美のあるところに主はおられます。だから、みなさん賛美しましょう」…なんていったりします。
この詩篇の著者ダビデも、そう思っていた一人でした。

しかし、この時、ダビデは賛美どころじゃない、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びの中、苦しみの中へと陥ってしまったのです。

どうして、私をお救いにならないのですか。どうして、答えてくださらないのですか。
私は、昼も夜も叫ばざるを得ない、ひどい苦しみの中にあるのに、
あなたは聖なるお方で、今の私とは遠く離れたイスラエルの賛美を住まいとされている。。。。
先祖たちは、あなたに叫び、助け出されたのに、でも、私は違う。
22:6 私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

むしろ愚痴にも近い、助けを求める叫びが、この後も延々と続いていくのです。

私たちにも似たような感情は起こりますよね。
あなたはいいよね、あなたは。でも私は違う、
あのひとはいいよね。あの人は。でも、私は駄目。。。。
決して、神様は、賛美を住まいとされているから、私も賛美しよう…っていう状態じゃないんですね。

ところが、後半になって、突然、彼は神を賛美しはじめるんです。

22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。

神を見失っていた彼は、一体どこで、神を見出したのでしょうか。。。。

実に、「神はイスラエルの賛美を住まいとされている」、それは彼の誤解だったんです。
決して賛美のできない、絶望の淵、叫びのただ中で、彼は主を見出していったのです。
賛美のないところにも主はおられた…!! それが、この詩篇22篇全体の主張、すなわち賛美なんです。

私たちの人生の中には、決して「神様が素晴らしい」と賛美できる時ばかりではない、悲しい時、つらい時、苦しい時もあります。
どうして助けてくれないのか、神様は一体どこで何をしているのか…わからない、そんなこともあるかもしれません。

ついこの間も、スマトラ沖での大地震で、15万人を超える方々が、瞬く間に津波にのまれて命を失っていったわけで、最近、本当にそういう災害が多いですよね。亡くなった方はもとより、残された遺族の方の悲しみを考える時に、いたたまれないものがあると思います。
私の上司もこの正月にちょうどプーケットに行こうとしていたんですね。危うく難を逃れたんですが、本当に紙一重、もしあと3日、地震が遅れていたら、間違いなく被害にあっていました。決して、遠い国の出来事ではない、私のすぐ隣の席にいる人が、正月あけたら、いなくなっていたかもしれないんですね。
クリスチャンは、主に守られて…という言い方をしますが、では、あそこで亡くなった人たちは神に見捨てられたのか…というと、決してそんなことはないんです。
都会にいるとつい忘れてしまいがちですが、そういうこともありうる自然の中で、私たちは生きているんですね。また、そういう悲しみも起こりうる、それが、「この世」というものなんです。

しかし、そんな「この世」にあって、私たちが苦しむの時、悲しむ時、その同じ悲しみ、苦しみ、叫びのただ中に、主もおられる方なんです。

ヨハネは、こんな表現をしています。
ヨハネ1:14 ことば(…すなわちイエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸と」いう話がありますよね。
地獄にいる泥棒が、一度だけ、クモを助けた事があると言うので、お釈迦様が極楽から地獄から登ってこられるようにクモの糸を垂らすという…。話の結果としては、登ってくる途中、下から他の罪人たちが登ってくるのをみて「降りろ降りろ」と叫んだ途端、上から糸も切れてしまうのですが、でも聖書の神はクモの糸を垂らすのではない、イエス・キリスト自らが、この世に降ってきて、私たちを救い出そうとする神です。

それも、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という叫びの中、事実、主イエス・キリストは、あの十字架の上で、そう叫ばれたんですよね。
それは、この詩篇22篇を唱えたんだとも言われていますが、私はそうは思わない。
確かにその詩は頭にあったかもしれませんが、本当に、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」…そう叫ばざるを得ない、それだけの苦しみ、痛みを実際に負っているんですよね。
それは、その叫びの中にいる人を救うため、そこに救うべき人たちがいたからです。
たとえどんな罪人であっても、どんな苦しみの中にあったとしても、そこに救いがあるように、イエス・キリストも、その苦しみの中にまで立たれた。まさに、どん底から救うためです。

クリスチャンは、時に「信仰」の名の元に、自分の心の叫びを押し殺してしまうことがあるのかもしれません。しかし、悲しみや、苦しみを隠して、「神様は素晴らしい」と賛美する事だけが、決して「信仰的」ということではないような気がします。つらい時につらい、苦しい時に苦しい、神様どうしてですか…と叫んでもいいんです。本音で叫び求めるところに、真実な神とのコミュニケーションもあると思います。

22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

私たちの信じる神様は、賛美の中だけ、ご自身を賛美してくれるところにだけ、気をよくして降りてくる神様ではありません。
目には見えませんが、イエス・キリストは、今日も私たちと共にいてくださいます。
私たちが苦しむ時には、主も同じ苦しみを負い、私たちが悲しむ時には、主も同じ悲しみを負いながらいてくださる。私たちが叫ぶ時には、その叫びのただ中に、いてくださるお方です。

大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。

そんな神様だからこそ、またそんな神様に触れる時 、私たちの口からは賛美が出てくるのではないでしょうか。

…私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル 4:15 ~16

You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>