| どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ 15:13 | |||
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| イエス・キリストと父なる神によって ガラテヤ1:1〜10 | ||||
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皆さんも良くご存知のとおり、「信じる信仰によって救われる」これが、福音の大原則です。でも、本当に信じる信仰によって救われるのだろうか…なんて疑問に思ったことはないでしょうか。
例えば、こんな自分でも救われるんだろうか…と不安になったりとか、 信仰だけなら、行ないはどうなるんだろう…とか、いっくら信仰によるといっても、行ないも多少は良くないといけないんじゃないだろうか…とかですね。ふと、そんな疑問を抱く時もあるかと思うんですね。 結論から言えば、それでもやっぱり「信じる信仰による」というのが、答えです。 まず、2章の16節から見たいと思うのですが、これが、ガラテヤ書の中心的なメッセージでもあり、福音の大憲章です。 人は律法の行ないによっては義と認められず、 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、 私たちもキリスト・イエスを信じたのです。 これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。 なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 かつて、中世のカトリックは、政治権力とも結びつき、教会は権力争いに満ちていました。免罪符を発行し、信仰よりもお金で罪が赦される、お金のある一部の貴族たちが優遇され、お金のないその他大勢の一般大衆は冷遇される、そんな時代があったんですね。 そんな時、このガラテヤ書が一人の神学者の目に留まりました。それがマルティン・ルターだったんですね。「信じる信仰によって義と認められる」ルターは、このガラテヤ書を掲げて、命を懸けて宗教改革に立ち上がったのです。 1000年に渡る暗黒の時代を超えて、再びイエス・キリストの福音を呼び起こしたのが、実にこの小さな書簡だったんですね。 それゆえ、ガラテヤ書は、プロテスタントにとって生命的な一書とも呼ばれています。いや、プロテスタントだけではなくキリスト教会全体にとって、「信じる信仰によって救われる」その福音の真理を守ってくれる生命的な一書です。 キリストを信じる信仰によって救われる…これが、福音の生命線です。 それは、私たち聖望キリスト教会にとっても、原点でもあり、生命線なんですね そのガラテヤ書を何回かに分けて、味わっていきたいと思っています。 今日、お読みした箇所は2つに分かれると思います。 前半の1節から5節は冒頭の挨拶、 そして、6節から手紙の本題に入っていくわけですが、ガラテヤ書が書かれた背景を理解するために、今日は、まず6節から10節を見て、それから冒頭の部分を見ていきたいと思います。 1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。 神が唯一なら、救いも唯一、他にはない。あれも、これも…ではなく、これだけというもの。「キリストを信じる信仰によって救われる」。これがパウロの伝えた福音でした。 ところが、ガラテヤの教会に、信じる信仰だけでは救われない、割礼も受けなければならない。そういう教えが入り込んでいました。 割礼と言うのは、生後8日目の男の子のおちんちんの先っちょの皮を切り取ることなんですが、律法にも定められていて、ユダヤ人たちは代々信仰の証として守ってきたわけですね。 割礼と似ているのが、私たちのバプテスマ、洗礼かもしれません。 洗礼は、救いの条件でしょうか、どうでしょうか。 答えを言えば、洗礼は公に信仰告白する時の一つの表現であって、救いの条件ではありません。割礼も同じです。ユダヤ人にとっての信仰の証、一つの表現であって、それは文化です。求められているのは、形ではなく、やっぱり信仰だったんですね。 ところが、そういった伝統的なユダヤ教の背景を持つ指導者たちがやって来て、 「信じるだけでは救われない、割礼を受けなければ、救われない。」 「十字架だけでは不十分である。律法を守ってこそ完全になれる。」 「キリスト信仰だけで救われるのではなく、割礼を受け、安息日を守り、収入の十分の一を捧げ、モーセの律法を守ることによって救われる。」 そういって、ガラテヤの教会の人たちに説いて回ったのです。 1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。 1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。 呪われるべきです。呪われるべしと…クリスチャンがやたらめったに口にしてはいけないような言葉も出てくるわけですが、本当に呪われていいのかといえば、そういうことではありません。絶対に、そんなことはあってはならない…そういう意味です。 それだけ、行ないによるのではなく信じる信仰によるということが、非常に大切な大切なポイントだったんですね。 1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。 ガラテヤの教会には、もう一つ問題が起こっていました。 パウロは、キリストの十二弟子ではない、復活したキリストに出会ったわけでもない。 パウロがクリスチャンになったのは、その後の出来事だったんですね。 ガラテヤの教会に忍び込んだこのユダヤ的な指導者たちは、そこをついて、パウロは使徒としての資格はない、権威もない、まったくの偽者である、私たちこそ正統な指導者であると主張していたんですね。 確かに、パウロは十二弟子でもなければ、復活したキリストに直接であったわけでもありません。でも、異邦人に向けて福音を宣教がなされていったのはパウロがいればこそです。 誰が使徒かといえば、イエス・キリストの十字架と復活の福音を伝えてこそ、使徒ではないですか。ところが、その本質を見ていないで経歴や肩書きで人を判断してしまう、そんなことは私たちにもあるかもしれません。 そのパウロが、使徒としての命を懸けて、勝負をかけて、キリストの福音を説いているのが、このガラテヤ書です。ここまでパウロが感情を露にして書いている手紙は他にはありません。ですから、表現がやや過激なんですね。 過激なので、私たちもつい熱く燃えて過激になってしまいがちなのもガラテヤ書なんですが、私たちは、その過激さを受け取るのではなく、パウロがそこまでしてこだわった「信じる信仰によって救われる」ということ、それは一体どういうものなのか、その福音、その恵みの尊さ、賢さを、このガラテヤ書から受け止めていきたいと思います。 ガラテヤ書全体を言い表すと、この1節から5節になります。 1:1 使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。―― 新改訳聖書では優しい言葉で訳されていますが、原文の言葉どおりに直すとこうなります。 パウロ 使徒 人々によるのではない。否定 人を通してでもない。否定 イエス・キリストと 彼を死者の中からよみがえらせた父なる神による いきなり、二重の否定から始まる、普通の手紙では考えられないような出だしです。けんか腰なんですね。それは、先ほど説明したような背景があるからなんですね。 人々によるのではない。 人を通してでもない。 イエス・キリストと 父なる神による パウロは、かつてキリストの弟子どころか、熱心なユダヤ教徒で、教会の迫害者でした。パウロの過去と言うのは、まさしく使徒に値しないような経歴の持ち主だったんですね。 ところが、まさに教会を迫害しに行こうとするパウロは、突然、イエス・キリストから啓示を受けてクリスチャンとなり、使徒として働くようにもなったわけですね。 使徒として、クリスチャンとして、ふさわしい経歴などない。証明するものなどない。 しかし、かつての教会迫害者だった私パウロが、今、キリストの使徒として存在しているのは、 人々によるのではない。否定 …教会や教団によるのではない。 人を通してではない。否定 …大使徒ペテロやヤコブ、まして私の力でもない イエス・キリストと 父なる神による 私たちの場合は、どうでしょう。教会であったり誰か人間を通して、イエス・キリストを知り、その救いの中へと導かれていると思います。でも、最終的に誰が私たちを救ってくださるのかと言えば、人ではなく、イエス・キリストと父なる神とによるんです。 反対に、私たちが誰かを救いに導くこともあるかと思います。でも、それも私たちがたまたま用いられただけ、神様が私たちを用いて、神様が救う。人々によるのではない。人を通してではない。まして私ではない。イエス・キリストと、父なる神による。 過去の経歴や肩書きが勝負ではありません。能力や実績が勝負ではありません。 人間の努力や行為によって、救われるか救われないかが左右されるのではありません。 信じる信仰による…というのは、イエス・キリストと、父なる神によって救われると言うことでもあるんですね。 聖望キリスト教会の基本精神の第一条にはこうあるんですよね。 「この教会は、特定の教派、教団に属さず超教派であり、リーダー、主宰者は主イエス・キリストである。」 まさに同じことなんですね。 ここがはっきりしていないと、ガラテヤの教会のように、人によって左右されてしまうことにもなります。あの先生はこういっている、あの先生が言うんだから間違いないだろう…、そうやって信じてしまう。 でも、イエス様だったらどうなの、イエス様だったら何ていうだろう…、それを吟味するというのはきわめて大切なことなんですね。どんなに経験豊かな先生であっても、また私たちならなおのこと、むしろ間違うことがあって当然なんですよね。人間なんですから。ここが抜けてしまうと、いくら神の教会だといっても、聖霊が導くといっても、いくらでも間違った方向に進んでいってしまうこともありうるわけですよ。 ですから、自分たちの教会は絶対的に正しいと言える教会は絶対にないです。 教会で決まったことが、すべて神の御心であると言うことも絶対にありません。 まして自分が絶対に正しいということは、絶対にありません。 では何が正しいのか、誰が正しいのか。 絶対に正しいと言えるのは、神様だけ。イエス様だけ。 しかし、ガラテヤの教会は、パウロは偽者だ、あの立派な先生たちの言うことの方が信用できる…そういって流されてしまったわけです。 1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あのイエス・キリストを、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 パウロに言わせれば、ガラテヤの教会が見捨てたのはパウロだったのではなく、イエス・キリストだったのです。 パウロとしては、すぐにでもその本題に移りたいところですが、ここでガラテヤの教会のために祝福の祈りを捧げていくんですね。 1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 パウロの心は、ここにあります。 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 恵みとは、受けるに値しないのに、無代価、無条件に与えられる良いもののことを言います。その良いものを無条件で受け取る時に、はじめて恵みも恵みとして理解できるわけですよ。 ところが、信仰プラス割礼によって、条件付で救われると信じてしまったガラテヤの教会は、いまや神の恵みを恵みとして受け取れなくなってしまったのです。 あなたがたは、キリストの恵みから落ちてしまっている… ガラテヤの教会を惑わした者たちは、一体、何者だというのか。 1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 信じる信仰によって救われるといっても、ただで転がり込んできたような安い話ではありません。自分が神様の存在に気づき、自分が信じて、自分で手に入れたわけでもありません。 イエス・キリストの十字架によって、成し遂げられたことなんですよね。それはキリストの命のかかった福音です。 そう簡単に曲げるわけにはいかない。曲げられてはならない。 私、パウロも、この福音によって立てられた使徒である。 もしこの福音がなければ、今の私はない。ガラテヤ教会の明日もない。 もし、イエス様が十字架にかかっていなかったら、私たちも神の愛を理解することはなかったでしょうし、この聖望教会も絶対に存在していないんです。 1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。 イエス・キリストの十字架の愛を知る時、その恵みを受け取る時、自然と生まれてくるのが神様を愛する心、礼拝する心だと思います。 礼拝一つにしても、実は、自分から出てきたことではないんですよね。 私たちが神の恵みを聞き、それを本当に理解し、その恵みを味わっていく時、私たちの人生、価値観、心にも、必ず、何らかの変革をもたらしていくはずです。人によってその程度や、スピードに違いはありますよ。でも、心が変わっていく時、必ず、行動にも変化が起こってきます。 神の恵みが先、神の救いが先、私たちの行ないは、どこまでも、あとです。 救いも、クリスチャンとしての行ないも、すべて 人々によるのではない。 人を通してでもない。 イエス・キリストと キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によるのです。 |
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