私の子どもたちよ/ガラテヤ4:1~20

前回の続きですが、救いの約束は、アブラハムの信仰から始まっているというわけですね。
アブラハムの信仰が先、モーセによる律法は後。

先週は、幸正さんが洗礼を受けられまして、神の子ども、神の家族になられましたが、これも厳密に言えば、洗礼を受けたからではなく、信じた時に父なる神に受け入れられ、神の家族になったんですね。
洗礼は公に信仰を告白する一つの表現でもあると同時に、神の救いも注がれるという、実によく出来た表現だと思います。ですが、信仰が先、洗礼はあと。
仮に、死の直前に信仰を告白して、洗礼を受ける間がなかったとしても、それで救いからもれてしまうということはないわけですよね。
逆に、信仰がなければ、洗礼を受けるという行為自体も発生しないと思います。

約束を信じる信仰が先、律法による行ないは後。
後に与えられた律法によって、祝福の約束が無効になってしまうことはないというわけです。

ならば、律法とはなんだったのか…。
律法は、律法を守る行為、つまり正しい行ないによって、祝福を勝ち取るため…ではなく、むしろ、私たち人間が抱えている「罪」の存在を知らせるためだったとパウロは言うわけです。

4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

たとえ全財産の持ち主であっても、その価値を理解できず、正しく運用できない間は、後見人や管理人の下にあるように、私たちが「神の祝福」「恵み」ということを理解する間は、律法の管理下におく必要があったわけですね。

恵みとは、「受けるに値しないにもかかわらず、神から無代価に与えられるもの」のことを言います。
ですから、神の恵みを「恵み」として正しく理解するには、まず、私たち自身が、いかに受けるに値しない「罪人である」かということを理解する必要があったわけです。

ガラテヤ書をはじめて、ここまでとにかく「信じる信仰による」ということばかりお伝えしていますから、中には、行ないはどうなるんだろう…と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。

ただ「正しいことをする」こと自体はもちろんいいことなんですけれども、僅かなことで「自分は正しいことをしている」というおごり、高ぶり、高慢が生じてしまうことがある。それもう「罪」なのです。
その高慢から、自分は神に従い、自分は正しいことをしている…そう錯覚したならば、神に従っていない悪い人、駄目なクリスチャンが目に付くようになってしまうわけです。それで、クリスチャンというのは、時に人を裁いてしまいやすくもなるわけです。
「信じる信仰による救い」自体は否定はしないけれども、行ないによって自分を正しい者としてしまう、すなわち「行ないによる義」、それも律法主義というもの、クリスチャンが非常にはまりやすい罠かもしれません。

話を戻しますが、本当に聖書に従ったならば、「義人はいない、ひとりもいない、すべて者が罪に定められている」、誰しもが「罪人」なんです。その罪を認めると言うことがまず大切なんです。
本当に尊敬に値する牧師先生と言うのは、「自分も罪人にすぎない」ということを本当に認めていますよね。

4:4 しかし定めの時が来たので、
律法の役割が十分に達成されたので。神の救いの時、私たちが恵みを理解できる時が来たので。
その定めの時まで、モーセの律法から実に1400年なんですね。それだけ、私たちは罪を認めにくい存在なのかもしれませんね。

神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

イエス様も、律法を制定した神としてではなく、律法によって拘束された一人の人間として生まれた。決して、律法から外れた存在ではなかったんです。
いや、イエス様も「律法を廃棄するためではなく、成就するためにきた」といっています。

4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

律法の中には、ある罪を犯したならば、石で撃ち殺せ…という命令もあります。
私たち人間は、そうやって悪を裁くことを「正義」、あるいは神の義と勘違いしていることもあるような気がします。しかし、本来、その罪の重さを教えているのであって、私たちが石で打つ殺していいとか、撃ち殺す権利があるわけではないんですね。
律法には、あなたがたは人を殺してはならない、また、隣人を愛しなさいとも定めているんです。
片方で撃ち殺せといい、片方で殺してはならないという、この相反するような律法、その両方を満たす方法が一つだけあります。
自分が、その罪の刑罰を身代わりに受けて、相手を生かす…、これがイエス・キリストの十字架、これが神の義、ここに律法が成就していくのです。

神は、私たちの罪を赦す代わりに、刑罰を身代わりとして受ける者、イエス・キリストの十字架を必要としたのです。
決して、いいわいいわではない。きっちり、けじめをつけた愛。
十字架は、神の愛だけではなく、神の義もきっちりと刻み込まれているのです。

その十字架の結果、私たちにも子としての身分が与えられている…それは、私たちの行ないによってでは、決してありえないのです。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

主の祈りにもでてきますね。「天にましますわれらの父よ」、イエス様は、神のことを父親のような存在として紹介したわけですね。
「アバ、父」、アバとは、子供が使う言葉です。

これは、ユダヤ教にはなかった習慣です。
それどころか、モーセの十戒には、「主の御名をみだりに唱えてはならない」と出てきますから、触らぬ神にたたりなし、「父」どころか、「神」とも呼ばなかったんです。一昔前では『エホバ』、最近では「ヤハウエ」と読まれていますが、聖書に出てくるヘブル語の「神」という単語もですね、あまりに口に出さないものだから、何て読んでいいかわからなくなってしまうほどだったんですね。

そんなところにもってきて、イエス様は、神様のことを「アバ父」、パパ、お父、ちゃん。そう呼んだもんだから、もう大変。 あれは神を冒涜している、ちゃんだの、パーだの、もう許せん!!
それもまた十字架へと向かう一つの要因となっているんです。

ですから、『祈る時にはこう祈りなさい「天にいる私たちのお父ちゃん…」』、これはイエス様が命を懸けて教えられた祈りなんですね。

私たちが「天にいる私たちのお父ちゃん」そう祈れる、それは本当に恵みです。
それも単に名前が「父なる神」なのではなく、神を父親のように慕う、それも幼子が父親を呼び求め慕う心、思い、祈りが、イエス様を通して与えられたんですね。

4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ところが、ガラテヤの教会は、父と子の関係から、主人と奴隷との関係へ逆戻りしてしまったのです。

4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

人間は、不思議なもので、自由が与えられても、一種の厳しさを好むことがあります。
自分を制し、厳しく、何かを犠牲にした方が、いかにも優れていて、いかにも神に愛されるように思うのかもしれません。

4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。

ユダヤ教には、過ぎ越しの祭りをはじめとして様々な祭りがあるわけですけれども、ガラテヤの教会は、それを守りだしてもいたようです。
キリスト教の世界にも、例えば、クリスマスのように、数々の記念日がありますね。
でも、そのクリスマスという行事を守らなければならないとか、守らないと神に裁かれるということではないわけですよね。

ところが私自身もよく使ってしまうんですが、礼拝を『守る』っていいますよね。
でも、本来、礼拝も「守る」ものではないと思うんです。
例えば、つり好きの人が、毎週日曜日、釣りに行ったとしても、「釣りを守る」とはいわないじゃないですか。
イエス様が好きで、神様を礼拝したいから、礼拝する…それでいいはずなんです。

その「守る」という言葉には、過去のキリスト教会の流れの中で、どこか「日曜日に礼拝を守りましょう」という戒めによって、礼拝という行為を「守っていた」経緯があるからだと思うんです。
でも本来あるべきところは、イエス様が好きで、イエス様に感動して、礼拝したいから、礼拝する…それが「霊と真によって礼拝する」ということではないでしょうか。

「日曜日」ということにも特別大きな意味があるわけではありません。そもそも律法が定める礼拝の日は安息日、金曜の日没から土曜の日没までだったわけですが、ギリシアに行ってから、自由の中から日曜日が選ばれてきたわけですね。
いうなれば「日曜日」という日は、このメンバーで礼拝しようと思った時の、待ち合わせ時間でしかありません。
もし、毎週日曜日に礼拝できたとしたならば、それは「礼拝を守った」のではなく、「日曜日の礼拝が守られた」んですよね。

そういうわけでクリスチャンは、年月にも自由です。
私たちがイエス・キリストの存在に出会うその時が、まさに礼拝の時です。
ある人にとっては、その時がクリスマスでもあるかもしれないし、また十字架でもあるかもしれないし、イースター・復活の時でもありうるんです。

ところが、ガラテヤの教会はその自由さを失ってしまった。
安息日なら安息日、過ぎ越しの祭りなら過ぎ越しの祭り、言われたとおりに「守る」奴隷のような礼拝、神様との関係も、奴隷と奴隷使いのような関係になってしまったのです。

4:12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。

かつて、パウロは教会を迫害するほどのバリバリの律法主義者、この奴隷のような信仰生活を送っていました。
自由とは程遠い世界、喜びとは程遠い世界、神様を恐ろしい主人か奴隷使いのようにしか思えない世界、それがどういう世界か、身をもって経験しているわけですね。

4:13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。

パウロは、目がよくなかったようです。
当時、そういう病気があると、あれは神から祝福を失っている、何か罰を受けている、そういう目で見られたものだったのです。それが律法主義の世界でもありました。

しかし、今や、ガラテヤの教会は、その律法主義に陥ってしまっている…。
愛と自由の福音の恵みから締め出されようとしている…。

これまで激しい口調でガラテヤの教会に訴えてきたパウロですが、パウロが決してガラテヤの教会を敵としてみなしているわけではありません。ガラテヤの教会が律法主義の世界に落ちていく…それが悲しかった、いたたまれなかった。むしろガラテヤの教会を愛しているのです。

その愛が集約されているのが、メッセージのタイトルにしました、この一節だとおもうのです。

4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
パウロは、信仰の先輩として、あるいは開拓した伝道者として、ガラテヤの教会を、まさに自分の子どものように思い、語り掛けていくのです。「私の子どもたちよ…」

あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、
神の奴隷ではなく、神の子としての思い、キリストのように神をアバ父と慕い求める心、父と子の関係を取り戻すまで。

これはパウロの思いだけではなく、父なる神の思いに等しいのではないでしょうか。
私にはまだ自分の子どもはいませんが、みなさんどうですか。
親であれば、していいこと悪いこと教えなくてはならないですが、その一方ですべてがすべて出来なくても、親だから結局のところ赦すんですよね。
自分の子どもが、すべて言うことはきくけど、あたかも奴隷と主人のような関係であるのと、あまりいうことは聞かないけれども、父親として、あるいは母親として慕い求めてくるのと、どちらがうれしいでしょうか。

父なる神も、そういった父と子の関係を築きたいと願っているのではないでしょうか。
まさに、それをキリストが、父と子の関係を教え、十字架を通して私たちに切り開いてくれたんですよね。

私達が、「天のお父様」、「天のお父ちゃん」と呼びかけているだけではなく、まず最初に、父なる神の方から、わたしの子どもたちよ…、わたしの子どもたちよ…そう呼びかけてくれているのです。

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