十字架によって与えられた自由 (1) 奴隷から自由へ/ガラテヤ4:21~5:1

※今回は、1回の説教を2ページに分けて掲載しています。

ガラテヤ書の講解の6回目になりますが、かなり間が開いてしまいましたので、ざっと復習からしていきたいと思います。

福音の本質は、「キリストを信じる信仰によって救われる」ということに対し、ガラテヤの教会には「信じる信仰だけでは救われない、割礼をはじめとする律法に定められた行ないが必要である。」という誤った教えが入り込んできていました。
律法を守っていないと神に裁かれてしまうのではないかという不安と恐怖に縛られながら一つ一つの教えを守って行く、パウロは、その様子を律法の「奴隷」として表現しています。ガラテヤの諸教会は、そんな奴隷状態に陥っていたのです。

しかし、律法は、私たちが正しいことをして救われるために存在していたのではなく、むしろ、私たちが救い難き罪人であることを示すためにあったというわけですね。
それはまさに、神が罪を赦してくださる恵みを理解するため、自分の罪がわからないと、罪が赦されていることもわからないわけです。
そして、そんな私たちの罪を赦すその代償として、イエス・キリストは十字架を背負ったのです。そのイエス・キリストをただ信じているというだけで、神は私たちに子としての身分を与え、私たちもまた父と呼ぶ、父と子の関係が回復したはずでした。

そこで今日の箇所、パウロは、律法すなわち旧約聖書から、奴隷となる事がどういうことであるのかを説明しているわけですね。

4:21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです…

…って、これがまた、非常にわかりにくいんですよね。
なので、プリントにまとめてみました。
(gal06.pdf 25.0KB ※このホームページ上では必要な部分を引用しながら掲載しています。)

■ 旧約聖書の比喩的解釈 …予型と原型
旧約聖書の歴史的事柄の中に、比喩や象徴的に現されているキリストの姿や救いの約束を見出す解釈法を比喩的解釈、または象徴的解釈といいます。

私たちには、半ばこじつけのようにも聞こえてしまうわけですが、これは、当時のユダヤの祭司が行なっていた解釈、説教法の一つでして、この当時、まだ新約聖書はないわけですね。ですから、すべてを旧約聖書の中から、説かなければならなかったわけです。

例)イエス・キリストによる比喩的解釈 ヨハネ3:14~15

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

イスラエルの民が毒蛇にかまれた時、モーセは青銅の蛇を掲げ、それを見上げた者は救われたという旧約聖書の事柄…予型
イエス・キリストも救いのために、十字架の上に釘付けにされなくてはならない。…原型

キリストの十字架が原型で、モーセの青銅の蛇はそのことを指し示す一つの比喩、あるいは象徴、予型であったと考えるわけですね。

それで、パウロの比喩的な解釈を表のようにまとめてみたわけですが、それでもわかりにくい。。。
しかし、大切なのは、原型であって、隠されている象徴を探り当てていくことではないんですね。細かい点は、プリントの表を参考にしていただくことにして、ここでは、原型、すなわち結論の方に重点を置きながら、直接、創世記の記事からみていくことにします。

●アブラハムへの約束 創世記 15:1~
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。
あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

当時、名をアブラムといいましたが、アブラハムへの祝福の約束は、子孫繁栄のことでもありました。ところが、アブラハムと妻のサラとの間には子どもがないまま、ふたりとも年をとってしまったんですね。

●肉によって生まれた
=人間的な知恵・努力によって 創世記 16:1~4
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」
アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
…彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

そこで、妻のサラは、
「どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」
と、自分に仕えていた奴隷ハガルに子どもを産ませることによって、自分の子どもとしようとしたんですね。これは、この当時の社会では、常識的なことでもあったんです。
そして、そのハガルから生まれたのが、イシュマエルです。

●しかし、約束の子はイサク 創世記 17:15~21
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。
「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
…すると神は仰せられた。
いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。
…来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

そして、サラから産まれたのが約束の子イサクだったわけです。

しかし、そうなると、母親同士で、衝突してしまうわけですね。これは、自分の努力によって、道を切り開こうとした結果が産んだ悲劇です。
結果として、奴隷の身分であったハガルとイシマエルは追放されることになってしまうわけです。奴隷の子は奴隷。律法の奴隷の身分のままでは、奴隷として追放されてしまう。
結局、身分の壁を越えることはできなかったのです。

しかし、約束により信仰による「 4:31 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」とパウロは説くわけですね。

パウロは律法主義と対決するため、この箇所を奴隷か自由かという一つの側面のみを取り上げ強調しているわけですが、奴隷という身分が卑下されているわけではありません。

実は、パウロこそ、もともと律法主義者の一人、律法の奴隷、イシュマエルとは、まさにパウロ自身のことでもあったんですね。
サウロよ、サウロ、なせ私を迫害するのか…。私はあなたの迫害するイエスである。
あのダマスコ途上の出来事、教会迫害者サウロから、キリストの使徒パウロへ。
キリストに出会ったとき、律法の奴隷から、福音による自由人へと変えられたのです。
キリストこそ、律法による奴隷から福音による自由への橋渡し、ガラテヤ5:1の宣言へと続くのです。

ガラテヤ 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

あのカルバリの十字架の上で、私たちのすべての罪の裁きは完了したんです。もはや負い目はありません。ただキリストを信じているというだけで、神は自由の約束の子として迎えてくれるのです。

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