約束を聞いて信じる関係/ガラテヤ3:1~29

今日の箇所は、律法主義に傾いたガラテヤの教会に向け、パウロが感情をむき出しにして、訴えかけているところからはじまります。

1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

十字架につけられたイエス・キリスト
ここの原文を見たときに完了形、「十字架に付けられたままのイエス・キリスト」となっています。

もちろん、イエス様が十字架につけられたのは、2000年前の一回きりの出来事です。
一回の十字架で全てが完了し、復活し、今は天におられるわけですが、しかし、十字架は過去に終わってしまった遺物ではない。今もなお有効である、今もなおキリストの十字架のゆえに、私たちの罪は赦され続けているのである…とパウロは訴えるわけです。

私たちが赦されたのは、あくまで十字架による。それは、今も、昔も、これから先もです。
この生涯を終わり、天国に入ろうとする時、何を持って天国に入ろうとするのでしょう。
「私は、これだけ立派なことをしてきました、だから天国に入れてください。私にはその資格があります。」なんて言えないですよね。
最期も、やっぱりイエス・キリストの十字架、自分の行ないではないのです。

3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

口語訳では、聞いて信じたからか…となっているんですが、答えはもちろん、聞いて信じたからです。

3 御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

御霊、即ち聖霊は、神ご自身なのに対し、肉によって…というのは、人間の力、自分の力という風に置き換えられます。
神の力によって救われて始まったあなたがたが、今になって自分の力で完成できるというのですか。
もちろん、そんなことはありません。
クリスチャンといえども、神様の助けがなければ、ただの罪人にしかすぎないんですね。

しかし、ここを読みながら、私自身の生活を振り返った時、特に仕事なんかしていると自分の力だけで完成させようとしていることって案外多いような気がするんですね。何か困難なことにぶつかっても、どうしようとか、こうしたらいいんじゃないか、いろいろ考えをめぐらせ、悩みながら、自分の力だけで完成させようとしている。
そういう習慣というか、思考パターンが、無意識のうちに身についていて、気づかない内に、肉で完成させようとしていることって、案外多いような気がするんです。頭では分かっているんですよ。神様が助けてくれる、聖霊が共にいてくれる、祈りもする、でも、いざという時、自分1人であくせくしているなんてことがあります。

聖霊は目には見えません。その声が、直接この耳で聞こえるわけでもありません。
聖霊が何か問題が起こったときに、聖霊がやってきて、目の前でチャチャチャっと、何かを作業をしてくれるわけではないんですね。

でも、聖霊、なんと神ご自身が、私たちの内に宿り、私たちの内側で働き続けてくださっている。その聖霊の力を、あえて意識して、より頼んでいく必要があるんじゃないのかと思うのです。それは教会生活とか、信仰生活とかいう面だけではなく、ごく日常的な出来事、仕事でも家庭でも、あらゆる面において、私たちの内に宿っている聖霊に、もっともっとより頼んでいっていいんですね。

3:5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

同じ質問が繰り返されていますが、最初の質問では過去形、ここでは現在形です。

あなたがたに御霊を与え続けている方は、あなたがたが律法を行なっているからか。聞いて、信じているからですか。

もちろん聞いて信じているから、信仰をもって聞いているからです。
「求めなさい。そうすれば与えられる。天の父は聖霊を与えてくださる」という御言葉がありますが、これは命令ではなく、約束です。正しいことをある程度したら、聖霊が与えられるわけではないのです。その約束を、聞いて信じることから始まるのです。

パウロは、アブラハムを例に挙げて、このことを伝えます。
3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。

アブラハムは、神様からの祝福の約束を聞き、信じました。満天の星空を見上げて、この星空を創られた神を信じました。
それと同じように、私たちも福音を聞いて信じる。十字架を見上げて、単純に信じることなんですね。

もし律法の行ない、すなわち私たちの行ないによるのなら、律法の1つか2つかではなく、律法の全てを堅く守らなくて義とはされない、正しいとはいえないんです。それが律法による義です。もちろん、とうてい出来るようなことではありません。
そればかりか、律法の一つでも破れば、祝福を受けられない、愛されない、そういった呪いというのか、呪縛にはまってしまうことになるのです。

最近の少年犯罪、小学生が同級生を殺してしまう、ナイフで傷つけてしまう…そういった事件を見た時に、必要なものは、それを禁止する律法ではない、まして罰則によって防ぐことはできないことがわかると思います。
実に、心の問題、自分がどれほど愛されている存在で、また周りの隣人もどれほど愛されている存在なのか…、「愛」が分からなくなってしまっているように感じます。

3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

イエス・キリストは、アブラハムの祝福が異邦人に及ぶため、約束の御霊を私たちが受けるため、まさに私たちを救うために、呪われたものとなられた…。
ヨハネの手紙の言葉を借りれば、「ここに愛がある」。
パウロの驚きは、いかばかりだったでしょう。かつて、まさしく自分の義のため、自分が救われるため、教会までをも迫害していた律法主義時代のパウロ(サウロ)では、到底思いつきもしないような、全く正反対のことをキリストは成し遂げていたのです。

アブラハムの約束は、430年後に出来た律法によって覆されるものではないとパウロは言います。
ならば、律法とは何だったのでしょう。
律法とは、私たちの違反を示すため、私たちの不完全さをあらわすためだったというわけです。

私たちは、多くの面で「自分の正しさ」というものを基盤としている面があるように思います。
自分は正しい、自分は間違っていないという自信があると、堂々と振舞えたり、それによって自分を保っていたりすることがあるんじゃないかなと思うんですね。
誰かに「あんた間違っているよ」なんていわれれば、決していい思いはしないと思いますが、たとえ本当に自分が間違っていたとしても、つい言い訳してみたり、誰かのせいにしてみたりして、自分を正当化しようとしてしまうことは、よくあると思います。

だから、つい信仰プラス自分の行ないによって自分の正しさを求めてしまうのかもしれません。少しでも正しいことをすることによって、確かに神様に愛されている、確かに神様に救われている、そういう安心感を求めてしまうのかもしれません。

しかし、例えば、今日のアメリカとテロリストの戦いをみても、両方とも自分たちは正しい、相手が間違っている、そう主張しあって戦いを続けているんですね。
テロリストが正しいとは思いませんが、アメリカが絶対的に正しいわけではない。でも、決してどちらも自分の非は認めようとはしません。
相手が悪い、相手が間違っている、最後まで自分の正しさを主張できた方が勝ち、相手を攻撃することさえ正当化してしまう、それが私たちの持つ「正しさ」であったりもするんです。

22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。とあります。

聖書は、私たち人間の正しさを証明していません。ある意味、私たち人間が守りきれないようなルールをあえて定めたんです。
それによって、私たち人間が、決して完璧に正しくはありえない、罪人であるということを教えているんですね。ですから、本当に厳密に聖書に従って自分を省みたとしたならば、罪人でしかありえないんです。

でも、それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためだというわけです。

信じる信仰によって救われるというのは、信じるだけでいいというよりは、自分の力ではどうにもならない、お手上げ、神様を信じる他にはないということなんですね。
罪人であるという自覚があってはじめて、神の助け、救いを求めるようにもなるのです。
しかし、この罪人にも、神の祝福が注がれている…。それが、神の愛であり、神の憐れみ、神の恵みです。その愛や憐れみを理解するためにも、自分が罪人であるという自覚が必要だったんですね。

3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

そういうわけで、私たちはみな、信仰によって神の子どもとされ、アブラハムの子孫であり、約束の相続人になったというわけです。
それは、もちろんイエス・キリストの十字架があってこそです。

約束を聞いて信じるというのは、実は、不確定なことも多いような気がします。
例えば、仕事の取引か何かで、口約束というのは、一番危ないとされています。言った言わないになった時に、収集がつかないんですね。
当然ビジネスですから、お互いに自分の利益を守ろうとします。完全に疑うわけではないにしても、100%信用するわけにもいかない。そこで契約の書面、いうなれば小さな律法が作られるわけです。

約束を聞いて信じるというのは、本当に信頼しあえる関係での事柄なんですね。

律法主義の世界は、いわば取引の世界です。
聞いて信じるだけでは、安心できない世界。約束を聞くだけでは信用出来ない世界です。

しかし、福音の世界は、約束を聞いて信じる世界です。
キリスト・イエスによって約束された救いを聞いて信じて安心すること、十字架を見上げて信じること、神様に本当の信頼を寄せていく世界なのです。

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