イエスキリストにある希望を届けるホーリーホーププロジェクト
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holyhope.net /メッセージ > ガラテヤ書講解 第7回

十字架によって与えられた自由 (2) ガラテヤ5:1〜12
※1回の説教を2ページに分けて掲載しています。その2ページ目です。

5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。


 さてさて、ここで自由とは何かについて、考えてみたいと思うんですが、
 自由というと、自分の好きなようにできる、自分の思い通りにできる…自由っていいなあ…って考えるような気がするんですね。

 でも実際、自由であっても自分の思い通りにできるとは限らないんですね。例えば、ピアノを弾く、ピアノを弾くのは自由です。でも、自分の思い通りにピアノが弾けるか…というと別ですよね。試しに私が弾いてみ…なくても、結果はしれてます。(笑)
 静だったら、思い通りに弾けるのかな…というと、静であっても、自分の思う通りにピアノは弾けないんですよね。本人いわく、私はピアノが下手なんだそうです。私たちにしてみれば、もう十分なぐらいにウマいと思うんですけどね。
 ピアノを弾くことは自由であっても、自分の思い通りにピアノが弾けるかどうかは別なのです。
 ところが、ピアノのことなら誰でもわかるけど、その他のことでは案外、私たちは自分の思い通りにならないことで、落ち込んだり、悩んだりするんです。それどころか、自分自身のことでさえ思い通りにならないのに、他の人が自分の思い通りにしてくれないことで、不満に思ったり、怒ったりもするんです。
 
 自由って何でしょうね…。
 そこで、まずイエス様の自由とはなんだったのか…見てみたいと思うわけですが、私個人が、一番キリストの自由を現しているのではないかと思うのが、ピリピ人への手紙2章6節です。

ピリピ 2:6〜
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


これが、キリストの自由さです。

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた…
これが自由ですか…って思うじゃないですか。でも、
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで…
つまり、キリストは全くの自由だったからこそ、人々を救うために、ののしられても、バカにされても、十字架までをも背負えたんですね。

私たちが普段考える自由というのが、実は、自分中心に偏ってしまっていることがわかります。

有名なマルティン・ルターの「キリスト者の自由」では冒頭でこのような命題があげられています。

・キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
・キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。

前半は、すごくよくわかるような気がします。
でも、誰にでも服する事ができるのかな…といえば、できなかったりします。私たちはどこかで必ず、自分を守ろうとしてしまう。
まして、十字架なんか背負えない。できたのは、イエス・キリストだけです。

そこで、このルターの定義に、もう一つ付け加えたいのが、自分の罪を罪として素直に認められる自由です。つまり、いつでも「ごめんなさい」が言える自由です。

 それこそが、十字架によって与えられた赦しであり、恵みであり、自由ではないでしょうか。

しかし、律法主義では、そうはいえないわけですね。

5:3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。


 パウロは、もし行ないによって義と認められようとするなら、律法の全体を守る義務があるというのです。
 ガラテヤのクリスチャンが、割礼を受けたばかりは、他のクリスチャンと比べ、一段と優れているように思えたのかもしれません。しかし、その行ないで自分を正しい者としてしまう。その瞬間、救われたのがイエス・キリストの恵みであることもわからなくなっているのです。しかし、たかだか割礼があるかないかによって、正しい人間になれるわけではないんですね。

5:12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。

パウロは、このような激しい口調で非難するわけですが、いずれ誤った指導者によって、1つ、また1つと、新たな律法が課せられてくるに違いないのです。信仰による救いを否定してしまった以上、自分の罪なんて認められないんですね。一度、律法によって正しさを得ようとしてしまった以上、律法のすべてを守らない限り、神に裁かれてしまうのではないかという不安と恐怖に縛られて、その指導者の言うことをすべてを守って行かなくてはならない、まさに奴隷になっていくのです。

5:9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。

 私たちも気をつけなくてはなりません。
 この聖望キリスト教会では、かなりの自由さをもっていると思いますが、それでもこういった団体で行動する時、何らかのお願い事やルールはでてきますよね。
 でも、できない時にはできないと言える、ルールが守れなかった時には素直に謝れる、またそれを赦す、そういった自由さが失われて、いつしか教会員の義務になったり、まして強制になってきたりしたら、危険です。

 ぶっちゃけ、キリスト教会の中にありがちな罠の一つは、十分の一献金かもしれません。十分の一を捧げること自体は、もちろん悪いことではないですが、教会員の義務となり、暗黙のうちに強制になってきたら危険です。毎月、収入の十分の一を献金していないと救われないとは決して言わないですが、十分の一を捧げていれば祝福を受けるとか、捧げていなければ受けられないとか言われて、実質、律法主義になっていくことがあるんです。
 そうすると、信徒は、がんばって十分の一を捧げようともするわけです。しかし、収入が厳しくて捧げられない人もでてきます。そうすると、捧げていない人はそのことで自分を責めてしまったりもします。
 しかし、十分の一も割礼も同じ律法の一つにすぎません。
 たかだか十分の一を捧げているから、特別に正しくて、特別に神様に祝福されるということはないのです。十分の一をボーダーにいい献金、悪い献金が決まるわけでもありません。たとえ十分の一を捧げられなかったとしても、その人のことを救うためにもイエス・キリストは十字架を背負ってくれたんですよね。
 ですから、いくら捧げるか、献金も自由です。神様からの祝福を受け、自分が捧げたいと思う分を心から捧げていくことなんですね。それでもし教会を継続していく上で足りなければ、みなで神に祈ればいいことです。さらに与えられるのかもしれないし、節約するなり、使い道を見直すなり、別の道が示されるのかもしないし、わかりませんが、必要は神が備えてくださる。それが信仰です。
 それを献金という名目で、義務だの祝福だの、まして神の裁きをちらつかせながら、信徒からお金を集めることではないはずです。

5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。


さて、最後にもう一つの大切なキーワード「愛」が出てきました。

この愛については次回に詳しく話したいと思っているのですが、愛というのは自分の心から自発的に沸きあがってくるもの。自由の中でこそ生まれてくるものなんですね。
正しいことなら、命令や強制でもできるかもしれません。
でも、愛だけは、いくら命令や強制されても、「愛せない」ことだってあるじゃないですか。

 私がかつて関わっていた律法主義のカルト教会で、私を指導してくれていた人の言葉が今でも印象的です。
 「もし信じる信仰によって救われるんなら、誰も何もしない」

 確かにクリスチャンの行為は、強制ではない分、生ぬるいところもあると思います。しかし、もし信じる信仰によって救われたら、何もしないのなら、そこに愛もないんですね。それどころかキリスト教自体、遠い昔になくなっていた事でしょう。しかし、そうではないのです。

 「もし信じる信仰によって救われるんなら、誰も何もしない」これは、彼らの行為が、愛から来ているわけではないことを意味していました。しかし同時に、逃れられない律法による支配の苦しみ、叫びのようにも聞こえました。

 キリスト信仰は、律法という教えをひたすら守る宗教活動ではなく、神の人との自由な人格的な交わり、そこから生まれてくる愛というもの。
 イエス・キリストの愛を知り、その愛を受け止めた時に、自己中心的な私たちにも起きてくるイエス・キリストへの愛。これこそキリスト信仰の本質です。

 クリスチャンの行為は、救われるため、誰かに認められるために行なうものではなく、キリストによって救われて、その愛に感銘を受けて起こる自発的な「愛」によって行なわれているものなのです。

・人の評価ではない、自分らしく、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する自由。
・でも、できなかったときには、素直に「ごめんなさい」と言える自由

 イエス・キリストは、あのカルバリの十字架によって、私たちをそんな愛と自由の世界へと招いてくれているのです。

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

ガラテヤ人への手紙講解 
第1回 「イエス・キリストと父なる神によって」
第2回 「迫害者サウロから使徒パウロへ」
第3回 「命がけの福音」 
第4回 「約束を聞いて信じる関係」
第5回 「私の子どもたちよ」
第6回 「十字架によって与えられた自由 (1)」 
第7回 「十字架によって与えられた自由 (2)」 

第8回 「十字架の主イエスの願い」
第9回 「私の誇り」

ガラテヤ 1:1〜10
ガラテヤ 1:11〜24
ガラテヤ 2:1〜21
ガラテヤ 3:1〜29
ガラテヤ 4:1〜20
ガラテヤ 4:21〜5:1
ガラテヤ 5:1〜12
ガラテヤ 5:13〜26
ガラテヤ 6:1〜18
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