「教会で起きるマインドコントロール」(6) 「聖神中央教会」事件を考える

 皆さんすでにご存知のように、少女へのわいせつ行為の容疑で、聖神中央教会の牧師、金保(通称 永田保)容疑者が逮捕されました。
事件については、まだ捜査の段階で、本人も容疑を否認しているらしいので、犯罪者として決め付けてしまうことはできないわけでして、それはこの先の捜査や裁判を経て、明らかにされていくぺきことでしょう。
ただ、ここでは、事件そのものではなく、そのマインド・コントロールについて取り上げておきたいと思います。

●聖神中央教会は、「正統的なプロテスタント教会」として活動していた

内部の実態を知る元信者の方や、以前より、そのケアにキリスト教関係者が当たっていることもあってか、今回の報道では当初から「新興宗教」として取り上げられています。
しかし…

・聖神中央教会は、「正統的なプロテスタント教会」として活動していた事実。
・キリストの十字架と復活による救いの福音も語られていたという事実。

もちろん、およそキリスト教的ではない独自の教義や儀式もあったようですが、この事実から、私としては、全く別物の「新興宗教」として見てしまうのではなく、「プロテスタント教会」、すなわち私たちのうちで起きている一つの問題として捉える必要があると思うのです。

いくつかのキリスト教系のサイト上でも、事件発覚以前は聖神中央教会のリンクは張られていました。もちろん、「正統的なプロテスタント教会」としてです。事件直後、すばやく削除したサイトもありましたが、このような事件が明るみになり、カルト性が明らかになるや否や、あたかも「私たちキリスト教とは全く関係ありません」みたいな? 突如として、蚊帳の外に置いてしまっていいものなのでしょうか。

クリスチャンであっても、外部から見ただけでは、正統なのか、カルトなのかわかりにくいのです。まして、プロテスタントとカトリックの違いもわからない、キリスト教をよく知らない人にしてみれば、正統なのかカルトなのか、わかるはずもありません。

クリスチャンの皆さんには、ぜひ、私たち「正統的なキリスト教会」で起こっている一つの問題、病理として捉えていただきたいと思うのです。そうしていかない限り、マインド・コントロールによる被害はなくならないと思います。
新興宗教や異端として、切り捨ててしまうのは簡単です。自分たちの身の潔白、正統性を訴えるだけなら、それでいいかもしれません。
しかし、排他的に批判だけしていても、かえって孤立させカルトに進ませるだけで、ほとんど無意味なのです。
マインド・コントロールをしない、させない、ハマらない、ハマらせないためには、一人一人がマインド・コントロールの手口、やり方、パターンについてよく理解し、真実を見抜く目を養っていくことでしかないのです。

●入り口は福音…

聖神中央教会が、いつからカルト化したのか、はじめからカルトだったのか、正確なところはわからないのですが、表向きは、正統的なキリスト教会として活動しており、一応、キリストの福音らしきものも宣べ伝えられています。

現在、聖神中央教会の従来のホームページアドレスではファイルが削除されていますが、ネットでは、検索エンジン用にキャッシュというものが取られていて、しばらくの間は、その内容を知る事ができます。
あわてて保存していったので、十分に拾うことはできなかったのですが、そのホームページ上では、金(永田)容疑者のメッセージも掲載されていました。

例えば、こんなことも語られています。

「イエス・キリストの流された血潮によって、私たちの全ての罪を洗い清めてくださるという驚くべき恵みが、全人類に与えられたのです。この 事実を知りイエス・キリストのもとに立ち帰る者は、どのような罪人であったとしても許しを得、神の国に入ることが出来るのです。ですから、イエス様と共に十字架にかけられた犯罪人が、イエスを主であると告白したときに神の国に入る道が開かれたのです。…
…誰でも罪が赦されるばかりでなく、永遠の命が与えられるという、驚くべき恵みの中に導きいれられるのです。私たちの力や能力でもなく、また、行ないによるものでもないのです。」(聖神中央教会 永田牧師による説教「ピリピ人への手紙」5より)

ところが、一方で、
「イエス様は、ただ、神の命令に奴隷のように従順されたのです。神の言に従ったとき、永遠の命があるのです…。
現在、主の奴隷となっておられる方、いらっしゃいますか?ほとんどおられませんね。それが、不幸なのです。奴隷にならない者、すなわち不信仰の者は、罪に定められ捨てられると、聖書は断言しているのです。
…奴隷には、ただ、命令が与えられるのです。主人が奴隷に相談したり、奴隷の意見を尊重したりする事は、あり得ないことです。奴隷には、主人の言葉が一方的に、命令として与えられるのです。」(同「福音の原理」38)

つまり、自分の考えや意見…「私」を殺して、奴隷のように従わなければ、不信仰の者、すなわち救われないというふうに説かれています。もちろん、これは完璧な間違いですし、マインドコントロールの典型です。

入り口は福音、入れば律法主義。
信仰によるかのように説きながら、結局は、行ないがなければ、信仰があるとはいない、すなわち地獄に行く…かのように、福音から律法主義へと刷り替えられていきます。

・ 教会から離れるのは、信仰がない証拠。悪魔と戦わなくてはならない。
・ 献金しないのは、信仰がない証拠。悪魔と戦わなくてはならない。
・ 伝道しないのは、信仰がない証拠。悪魔と戦わなくてはならない。
・ 全てに従わないのは、信仰がない証拠。悪魔と戦わなくてはならない。

これだけを取り上げてみれば「どうして、こんなことを信じてしまうのか」わからないかもしれませんが、実際には、教会や指導者に対する信頼を築いた上で、徐々にマインドコンロールはかけられていくのです。当然起きうる指導者や教会の命令に対する疑問や、自分の意志や考えも、全て「悪魔」の仕業としてしまうのです。

そのようにして、少女たちの信仰を試すといいながら、わいせつな行為も働いていたのかもしれません。暴力や体罰もあったとすれば、マインド・コントロールからさらに進んで「洗脳」状態にあったかもしれません。いずれにしても、試していたのは信仰ではなく、どれだけ奴隷状態になっているかといえます。

●問題なのは、性的な犯罪?

今回、報道各社によって事件が大きく取り上げられたのは、少女への性的暴行という事件の重大性によるところが大きいような気がします。

もちろん、それだけでも十分なくらい、被害者には深い傷を与えているのですが、このような性的な犯罪を犯したのは、金容疑者個人の性癖によるもの、もともとあった罪が現れた結果にすぎないと思います。
少女趣味はともかく、性的な欲望や弱さは、多かれ少なかれ、どんな牧師であっても、私であっても持っていますし、罪を犯す可能性を持っています。ですから、性的な誘惑に陥らないように注意が必要ですし、そのことで人のことをとやかく言えるものでもありません。

しかし、今回の被害者の中には10年以上前から、このような性的な乱暴を受けていたという訴えもあります。そういった通常許されない行為が10年以上も隠されたまま、教会内で行なう事ができてしまう状態になっていることこそ問題とはいえないでしょうか。それはマインド・コントロールによる支配体制があってなせる業です。

これが、仮にたとえ犯罪ではなく、礼拝出席、献金、奉仕、伝道…、その他、見た目キリスト教的なことであったとしても、もし同じマインド・コントロール体制によってなされているとしたなら、同じ病理を抱えているのです。

「正統的なキリスト教会」(…とは、いえないかもしれませんが、現在もキリスト教会として活動しています)の一つで、地獄や悪魔の存在をちらつかせることで、一人の信徒にうん百万という単位で献金をさせていた教会を知っています。
もちろん、直接的に脅すなんて頭の悪いことはしません。そのお金を、献金せずに、自分で持っていることが罪かのように思わせるのです。信徒は、いたたまれなくなって献金するわけですが、あくまで、信徒が自主的に喜んで捧げたことになるのです。

(これは精神的に目に見えない鞭を打たれ続けて、これ以上、鞭を打たれないように、お金を差し出しているようなものです。本当は自らの意志で喜んで捧げているわけではなく、ただ、鞭から解放されることに安堵しているだけなのですが、それを時に「喜び」とさえ錯覚します。目に見えない鞭だけに傷跡も見えず、その分、マインドコントロールは厄介なのです。)

そんなこんなで、この信徒さんの場合、蓄えていた貯金も献金し尽してしまったのですが、お金を持っていると思ったんでしょうね…、さらに多額の献金が要求されてきたので、たまらず逃げ出したのです。
他の信徒たちは「悪魔に誘惑されている」と信じこまされ、非合法的な手段まで使って、必死で引き止めようとしたそうです。(彼らは、彼らで真剣なのです。)

性的な犯罪ではありませんが、地獄という脅しをかけてお金を要求し、教会へ拘束しようとするのであれば、りっぱな脅迫です。
ニュースにこそなりませんが、こんなことも「正統的なキリスト教会」の中で起こっているということを、ぜひ知っておいて欲しいと思います。

●入り口が福音なら、最後まで福音で!

しつこいようですが、福音の大原則は「キリストを信じる信仰による救い」です。行ないによるのではありません。
「信じる信仰による救い」というと、今回のような事件を起しても赦されてしまうのか…という批判もあるかもしれません。
しかし、「信じる信仰による救い」が徹底されていたなら、被害にあった少女も、その母親も、周りにいた信徒たちも、牧師にNO!と言えたはずなのです。
「信じる信仰による救い」では、マインド・コントロールによる支配は不可能なのです。

イエス・キリストは人間を脅迫するために、十字架を背負ったわけではありません。
人間を奴隷にして支配するためでもありません。

確かに、罪人かもしれない、神に従っているとはいえないかもしれない、それでも、イエス・キリストは、この「私」をも愛し、この「私」を救い、この「私」を生かすために、自らは十字架を背負って死んでくれたんですよね。
イエス様も、奴隷として従ったのではなく、その深き愛ゆえに、自らの意志で十字架を背負ったんですよね。
私たちはイエス・キリストほどの深い愛はもっていないかもしれませんが、私なりに、私らしく、私にできることをもって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する、この3つの愛に生きる。。。。
誰が、愛するって、「私」が愛するんです。福音の世界は、キリストの愛と命を受けて、「私」が輝いて生きる世界です。
一人の指導者の評価に脅えながら、「私」を殺し、奴隷になることではないのです。

パウロも、かつては熱心なユダヤ教徒、いうなれば律法主義カルトにハマっていた一人です。
厳しいまでの律法主義の世界で、人の評価を得るために、とにかく自分を殺して、奴隷のように律法をひたすら厳守していました。
「信仰による救い」を説き、律法を厳守しようとしないキリスト教会は神を冒涜していると教えられるがままに信じ、そんな教会が赦せず、迫害までしていました。

しかし、そんなさなか、キリストに出会い、キリストの愛が理解できた時…、
律法の中心である愛を忘れて、教会を迫害していた「私」
本来ならば、律法によって裁かれ、死すべきはずの「私」、
そんな「私」をも愛するキリストの愛を知ったとき、180度、変えられてしまったのです。

破壊的な教会迫害者から、キリストの愛を説き、愛に生きる使徒パウロへ。

それらはすべて、ただキリストを信じる信仰によっていたのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

ガラテヤ 2:20~2:21

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