「教会で起きるマインド・コントロール」 (4) マインド・コントロールの手法

 ここでマインド・コントロールの手法について説明しておこうと思うのですが、恐らく、多くの教会のクリスチャン皆さんは「そんなことをする教会があるんかな~。」と思われると思います。ちょっと信じられないような。。。

確かにキリスト教会全体の数に比べたら、極々限られた少数の教会の話にすぎないのかもしれませんが、嘘のようなホントの話、実際に起きてしまっていることでもあります。
ある程度、マインド・コントロールによる支配体制ができあがると、活動も活発になりますので、人数も増えていきます。それだけ悲しいかな、「教会」で心に傷を負ってしまう人も増えていってしまうのです。

ちょっと弁護をすると、キリスト教会がカルト的になってしまう場合には、「マインド・コントロールで信徒を支配してやろう」というような確信犯ではなく、むしろ一生懸命で、責任感が強く、熱心であるあまりに、気負いすぎて、気づかない内にマインド・コントロール的な支配になっていた…というケースが多いのではないかなという気がします。恐らくマインド・コントロールをしているなんて、思ってもいないと思います。

ですので、繰り返しになりますが、もし仮にマインド・コントロールが行われていると思ったとしても、くれぐれも直接的な批判は避けてください
妙な正義感や、特にマインド・コントロールによって苦しんだ方は、すでに心に傷を負っていますから、赦せなくなって、怒りが沸々と湧いてきやすいのです。…というか、私自身がそうでして、注意していないと失敗してしまいます。ほとんど自戒ですね。。。

確かに、マインド・コントロールはあってはならないことですが、でも、相手もわけもわからないまま、ただ批判だけされても、受け入れることなんてできないんですよね。本当にマインド・コントロールだなんて思っていないんですから。逆に、心に深い傷を負わせてしまうのです。マインド・コントロールは、そのようにして多くの人に傷を負わせていくのです。

今回、このコラムの目的も、マインド・コントロールについてよく知ってもらうことで、
・これから先、その罠から身を避けるため、
・もし今、その渦中にある人がいたら、自ら気づいてもらうため
周囲の人にも、傷の痛みを理解してもらい、助けてもらうためです。

■マインドコントロールの手法

前回お話しましたが、マインドコントロールとは、
「組織やある特定の第三者が、人間が抱く依存心や恐怖心などを巧みに利用しながら、自分で考えたり、判断したりする自由な思考を放棄させ、第三者の意志を自分の意志かのように行動させていくこと」
うんと簡単に言えば、各個人が自分自身で考えさせない、判断させないように支配して、指導者の意志を実行させることです。

一体どのようにして自由な思考を放棄させ、第三者の意志を実行させていくのか、ここでは、代表的なものしか取り上げられませんが、ご紹介していきます。

1. ラブシャワー

マインド・コントロールの手法にはいろいろありますが、通常はラブシャワーと呼ばれる大歓迎から始まります。非常に友好的で、親切で、悩みもいくらでも聞いてくれます。そのような暖かさや愛に、安らぎを覚えたり、感銘を受けたりするのです。

…って、普通、どんな教会でも新しい人が来たら、歓迎くらいしますわな。
歓迎すること自体が、悪いことでも、マインド・コントロールになるわけではありません。
ラブシャワーは、いわば導入です。マインド・コントロールでは、ラブシャワーによって友情や信頼関係、あるいは安心感を築いた上で、人を支配していこうとします。
カルトでは、友情よりも組織や指導者の方が絶対です。もし組織や指導者に反したり、指示に従わなくなった場合には、これまでの友情も信頼も、仮に親族であっても家族であっても、断ち切られてしまうのです。

普通であれば、歓迎は歓迎であって、特に見返りか何かを求めるなんて考えてはいません。長年、教会に来てはいても、なかなかクリスチャンにはならない人もいます。だからといって歓迎しなくなるわけではありません。
私にもクリスチャンではない友は大勢いますが、クリスチャンになっても、ならなくても友は友です。なかには今、教会からは離れてしまっているクリスチャンの友もいますが、やっぱり友であることに変わりはありません。

さてさて、ラブシャワーによって、ある程度友好的な関係が生まれ、批判する力が薄らいできたところで、カルト特有の教えも説かれていくことになります。はじめはお付き合い程度に聞くこともあるでしょうし、それまで孤独を感じていたような人にとっては、友情を維持させたいばっかりに進んで話を聞くようにもなります。

とかく人間関係が希薄になりがちな現代にあっては、心のオアシス的に組織の中にいることに依存してしまうのです。そうすることで、自分で判断するより、指導者や組織の言うことに従っていた方が安心かのようにも思ってしまうのです。

逆に、一度芽生えた友情が引き裂かれるのは、悲しみであり、痛みです。
ですので、その心地よい友情関係を維持するために、あまり吟味することもなく、ついつい組織の考えに同調したり、指示に従ったりしてしまうのです。

はじめのうちは「自分」という存在が限りなく尊重されているようで、いつの間にか「自分」という存在が組織に取り込まれていくことになります。

2. 恐怖によるコントロール

マインド・コントロールで一番多い手口は、何らかの不安や恐怖心を植えつけることで行動をコントロールすることでしょう。

嘘のような本当の話、あるカルト的に傾いていた教会の牧師自身が「自分は地獄に行きたくないから、イエス様に従っている」と語っていたケースがありました。
確かに、聖書には地獄の話も神の裁きについても説かれていますが、その中心はあくまでキリストによる救いです。
しかし、信徒を支配するために、キリストの救い以上に神の裁きの方が強調されたり、罪の赦しよりも罪の責めの方が強調されて語れたりします。
一回一回は聞き流していても、何度となく繰り返し聞かされていくうちに、罪責感や恐怖感が徐々に刷り込まれていきます。そして「救い」(安心感)を得るためには指導者や組織の指示に従うことを薦められていくのです。

もし従えば、更なるラブシャワーを受け、安心感が得られます。逆に、自分という存在が組織に認められ、ちょっとした喜びにも感じるのです。恐怖の裏には、こうした優越感も巧みに利用されています。
そうこうしていくうちに組織の考え方が自然となり、指導者の指示に従う事も当然のようになってくるのです。
しかし、いざ従いきれなくなってくると、今までとは違い安心感は薄らぎ、これまでに刷り込まれてきた不安や恐怖、孤独感や罪責感などによって、苦しむことになるのです。いや、そうなる前に、ほとんど無意識のうちに不安から逃れるために、頑張って従おうとするのです。

組織からも離れることもできず、結局のところ安心感を得るために、第三者の意志を自分の意志として行動せざるをえなくさせるのです。

3. 権威によるコントロール

長年カルト問題に取り組み、「教会がカルト化するとき」の著者でもあるウイリアム・ウッド師によれば、この「権威」がマインド・コントロールの一番の鍵になっているといいます。
人は権威に弱いといいます。同じ発言内容であっても、一般信徒と、牧師先生とでは発言力に差が出ますよね。まして、過去に大きな実績があったり、大きな教会や活動をしている「先生」の言うことであれば、特に吟味することもなく、すべて「間違いない」かのように信じてしまうなんてことはないでしょうか。。。

…といっても、たいていの場合は信用して構わないのですが、それはそれとして、時折、一歩身を引いた立場で、自分自身で考えることも大切なことなのです。

マインド・コントロールの場合には、指導者の「権威」を強調することで、信徒の上に立ち、疑問や反発を抑え込む形で、支配しようとする場合があります。
自分がどれほどまでに「神」に従い、どれほど捧げてきたかを繰り返し語ったり、また「神によって立てられている」、「聖霊によって示された」など、執拗に神の「権威」を強調するのです。
聖書の権威も利用されます。組織や指導者が信徒を支配するために、都合のいい聖書箇所だけを抜き出して、強調することで、信徒が有無を言えないようにするのです。
そのようにして、「神」や「聖書」の権威を借りて、たとえおかしな間違ったことでも「権威」ある指導者に従うべき、従わないことは「神」に反逆するかのように教えられていくのです。

しかし、権威を笠に着ているだけなので、必ず矛盾や無理も生じてくるものです。
本来、聖書が伝えるイエス・キリストの福音とマインド・コントロールは相反するものなので、同居できません。
そこで、キリスト教会でのマインド・コントロールの場合には、どこかで必ず聖書や福音の方が曲げて解釈されているものです。もし聖書66巻のみを神の言葉としていても、都合のいいように曲げてしまうのであれば、エホバの証人や、モルモン教が聖書以外の聖典を用いるのと同じなのです。

その誤った解釈が指導者の生み出したものなのか、はたまた指導者も誰かから受け継いだものなのかわかりませんが、指導者自身もその誤りに気づかず、正しいと信じきっていることも多いようです。
冷静になって考えればすぐにわかるようなおかしな解釈であっても、不思議なことに、異なる人が、同じ間違いを、同じような言葉で説明するのを耳にすることがあります。まさに右から左、鵜呑みにしてしまっているのです。

こんな話があります。
あるカルト化した教会の信徒さんが、内心「おかしいな」と思っていながら、度々著名な伝道者の先生方が招かれてきては「いい教会ですね。」というので、やっぱり、いい教会なのかなと思っていたと言うのです。
もちろん伝道者の先生は、その教会がまさかカルト化しているなんて思いもよりませんし、普通なら、半分挨拶代わりの社交辞令として受け止めるような内容です。しかし、「権威」のある人の発言だったので、自分の思考の方をストップさせてしまったのです。マインド・コントロールによって、すでに、そういう習慣が身に付いてしまっているのです。

もし神によって立てられた牧師や教会であるから、自分たちには間違いがないと主張するならば、それは単なる高慢にすぎません。
どんなにすばらしい牧師先生であっても一人の人間です。間違うこともあります。むしろ本当にすばらしい牧師先生というのは、それこそ神の前に身を置いた時に、自分も罪人の一人、自分にも間違いがあることを謙虚に認めているものですよね。まさしく、神によって立てられた器だと思います。
まして、私たちなら間違うことはいくらでもあるはずです。そういう観点からは、謙虚になることは必要です。でも、だからと言って、自分で考えたり、判断したりすることをやめてしまうべきでもないのです。

聖書に描かれているあのイエス様だったら、どう考えるだろう…。
あのイエス様だったら、なんて言うだろう…。そんなふうに考えてみてください。

本当に権威あるお方はただひとり、イエス・キリストだけです。しかし、そのイエス様は、神の権威をもって人々を支配するのではなく、人々を愛し、私たちのことを救うためなら十字架までをも背負ってくれる…そういうお方なのです。

4. 「悪魔」によるコントロール

「悪魔」によるコントロールなんてというと、なんだか物騒かもしれませんが、組織が「神」に属するとするならば、組織に属さないもの、反するものは「悪魔」に属するとみなされることがあります。

もし家族や友人が、集団のカルト性に気がつけば、当然、問題点を指摘し、離れるように説得すると思います。しかし、組織や指導者の誤りを指摘したり批判したりすることは、「真理を妨げようとする悪魔の働き」とか、「サタンの惑わし」というふうに教えられるのです。

間違っても、カルトに所属している人間が、組織に対して批判的なことは言えませんし、言おうものなら、自分がサタンにやられていることになって攻撃されてしまうからです。
そうやって反対の声や、自分自身が「おかしい」と思う気持ちでさえも、すべて「悪魔(サタン)の惑わし」として情報をシャットアウトさせ、自分で考えさせないようにさせてしまうのです。

これなら、どこかに隔離、監禁しなくても、情報操作が可能になります。
ちなみに、これは、エホバの証人でも全く同じ手法が使われているそうです。

「悪魔」によるコントロールは、情報操作だけではありません。

組織から離れようとする信徒を、「悪魔」から守るために、半ば強引な手段で説得しようとしたり、外部との連絡を取らせないようにしたり、家に押しかけたりした話もあります。(念のため、付け加えておきますが、これらのことをした信徒らはマインド・コントロールされているだけで、悪意は決してありません。むしろ彼らにとっては善意です。)

最終的に組織から離れると決心した信徒は、会衆の前で完全に信仰を捨てさることを告白させられたり、「悪魔に惑わされた者」とか、「裏切り者のユダ」と呼ばれたり、時には呪いともいうべき言葉を浴びせられる例もあります。
そんな姿を見せられているので、残った信徒は身動きがとれなくなるのです。多くの場合、信徒の意志に関わらず、離れた信徒との交流はできなくなってしまいます。

この時には、教会からキリストも神の愛も救いも、どこかにいってしまうのです。なぜか「悪魔」の名だけが妙に語られるのです。

●カルトかな…と思っても

これらの手法は、ほんの一例に過ぎません。その他にも、支配を強めるために、様々な手法、話術がとられることがあります。
全てが当てはまるケースもあるかもしれませんし、部分的に当てはまるケースもあるかもしれません。

しかし、このコラムを始めにも伝えましたが、もしカルトかなと思っても、直接的な批判は避けるべきです。むしろ、批判すればするほど、かえって、かたくなにさせてしまうのです。
逆に、あなた自身が非難され傷つきます。いや、もうすでに傷を負っているかもしれません。
おかしいなと思ったら、静かに祈り、そっと信頼できる外部の先生、専門で扱っている先生などに相談してください。組織から出て幅広い視野を持つ事が大切です。

最後に、ウィリアム・ウッド著「教会がカルト化するとき」から、教会のカルト傾向を測るチェックリストの項目を抜粋して、この章を閉じます。

権威主義の面
(1) 強権的になっている。(「牧師に従え」的に独断的になっている)
(2) 多くの規則を作って、信者を束縛している。
(3) 牧師批判は神への反逆とみなされる

排他性の面
(1) 他の教会との交わりが許されない。
(2) 情報コントロールが行われている。(秘密の部分がある。金銭的なことなど)
(3) 教会を去ったものに汚名を着せる

教育の面
(1) 自分の考えを正当化させるような説教になっている。
(2) 律法主義的になっている。(「したい」が「しなければならない」になっている)
(3) 福音に付属品が付いている(独特な解釈、特別な行為、霊的体験など)

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネ10:10~11

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