「教会で起きるマインド・コントロール」 (2) カルト教団に通った経験から

 私は大学時代、教会から離れていたのですが、ある時、キリストの十字架の意味がようやく自分のこととしてわかり、再び教会に集いたいと思うようになりました。

その時、たまたま大学時代の同級生がとある教会に集っていて、来ないかと誘われ、その教会に集うことになったのですが、実はカルトだったんですね。しかし、その教会はまだカルトとして知られておらず、私自身もカルトといえば統一教会くらいしか知らない当時だったので、結果としては半年くらい集うことになりました。

その教会では、聖書66巻のみを神の言葉とし、三位一体、キリストの受肉・十字架・復活・再臨も信じています。ここまでみれば、正統的なキリスト教会となんら変わらないのです。
それどころか、この教会は若い人も多く集い、誰にでもフレンドリーで、賛美も素晴らしく、聖書もよく学んでいます。見た目は実に素晴らしい教会なのです。
たぶん、ここだけを見てカルトだと見破れる人は、極めて少ないと思います。

しかし、しばらくして、少しおかしな話を耳にするようになりました。
イエスの弟子こそが本物のクリスチャンで、イエスの弟子だけが救われる。」というのです。
この教会で「弟子」というのは、イエスの教え(聖書)を実行する人ことです。
その時点では、楽観視して放っておいたのですが、聖書の言葉を100%完全に実行できる人など当然いないわけです。それでは誰も救われなくなります。
ですから実質的には、指導者の判断で従っているか否かが決まり、またその指示に従っていれば「救われる」ということになっていたのです。
 彼らは「自分たちこそ本当のクリスチャンで、この教会こそ本物の聖書的な教会」と自負していたわけですが見た目素晴らしいと思えた賛美も、聖書の学びも、すべては教会が認める「イエスの弟子」であり続けるためになされていたんですね。落ちこぼれて、地獄に落ちないために…。
裏では、苦しみながら、脱落していく人も多くいたのです。

そんなある時、事件がおきました。私を誘ってくれた同級生が教会を離れたというのです。
その同級生は、キリストの愛の実践を福祉の仕事で生かしたいという思いもあって、福祉の仕事をしたいと願っていました。しかし、福祉施設で働くとなると日曜出勤があります。そうすると、当然日曜礼拝に参加できない日もあるわけですね。
その前から、聖書や福音についてのいくつか質問に答えていたのですが、恐らく背後でかなり責められていたのかもしれません。
ある時、先輩信徒から「イエスを取るのか、仕事を取るのか」と迫られ、仕事を取ると決めたとき、早い話、教会破門を告げられたというのです。

大概の教会では日曜日に礼拝を行いますが、キリスト教会の歴史の中で日曜日が一般的になっただけで、「日曜」の必然性は全くありません。そんなに礼拝が大切だと言うのであれば、別の曜日にも礼拝できるようにすればいいだけの話です。教会でなくては、礼拝ができないわけでもありません。第一、「安息日厳守」の壁を打ち破ったのはイエス・キリストです。日曜礼拝厳守の聖書的な根拠は皆無のはずです。

しぶとく抗議をしていたのですが、あげくの果てには、彼と仲の良かった人まで「もう彼の心の中にイエスはいない」というじゃあありませんか…!
まだマインド・コントロールの実態を知らなかったので、血気盛んな当時、ただただ憤慨するだけでした。

(※結果的には、彼がこの教会から離れたことは大正解だったのですが、多くの傷を負ったことには違いありません。
これは後からわかったのですが、この教会では、このような破門者が出ると多くの教会員の前で信仰を捨てることを表明させられ、牧師から呪いの言葉までかけられることもあったそうです。教会員たちはそのような姿も見せられていますから、破門者を弁護することも、交流することもできなくなるのです。
これらは実際に正式な教会員として所属していないとわからないことで、つまり、この時の私のように、教会員になっていない人にはわからないのです。)

そうこうしている間に、矛先は私の方に向けられてきました。以前の洗礼は無効で、「イエスの弟子」になるための洗礼を受けなおせというんですね。
私はクリスチャンホームで育っていましたから、小学生の時に洗礼を受けています。確かに、一時は教会からも離れ、不良ぶっこいていたクリスチャンですが、そんな私であっても、ただキリストを信じているというだけで、神が救ってくださる…、救いが恵みだという事だけは理解していました。洗礼を受けなおすという事は、自分の洗礼が有効か無効かではなく、イエス・キリストを否定するようで納得できませんでした。

ただ、これも不思議ですが、マインド・コントロールの影響は多かれ少なかれ、半年も通っていればあるものですね。もしかしたら、自分の理解が間違っているのかもしれない…と、どこかで思うんです。
しかし、幸いなことに、ジャパン・カルバリー・クルセードの福沢満雄先生に相談する事ができ、「マインド・コントロールだから、すぐに離れなさい」と指摘され、そこではじめてマインド・コントロールの存在を自覚したのです。

結果として、洗礼を受けない=この教会との訣別を意味していました。
その途端、昨日までの友が、今日は敵となるのです。同じイエス・キリストを信じているはずなのに、なぜ、このような別れをしなくてはならないのか、わけがわからず、もう涙、涙、涙でした。。。。
最後の別れに、この教会で私を指導(?)してくれていた人の言葉が今でも印象的です。
もし信じる信仰によって救われるんなら、誰も何もしない

聖書の本質は、「愛する」ということです。それは彼らも説き、かつ「実践している」はずのことでした。でも、もし信じる信仰によって救われたら、何もしなくなるというなら、そこに愛はあるのかな…というとないんですね。それどころかキリスト教自体、遠い昔になくなっていた事でしょう。
クリスチャンの行為は、救われるために行なうのではなく、キリストによって救われて、その愛に感銘を受けて起こる自発的な「愛」によって行なわれているものなのです。

「もし信じる信仰によって救われるんなら、誰も何もしない」これは、彼らの行為が、「愛」から来ているわけではないことを意味していました。
しかし、それは同時に、逃れられないマインド・コントロールの苦しみからの悲鳴のようにも聞こえました。
彼らは、決して悪意があるわけではなく、むしろ純粋なのです。純粋であるがゆえに、一生懸命にもなります。マインド・コントロールをかける人は、加害者であると同時に被害者であることが圧倒的に多いのです。

 この教会は、はじめからカルトだったのではなく、アメリカにあるごく普通のプロテスタント教会だったということを、ぜひ覚えて置いていただきたいと思います。その中の20人ほどの熱心な信徒たちが、「イエスの弟子こそが本当のクリスチャン」だとしてはじまったのです。正統的な教会であっても、カルトが発生する可能性が十分あるのです。のちに同じグループの教会から、異端として正式に破門されますが、しばらくは伝統的・正統的な教会の一派として、活動していたのです。
奉仕・伝道・献金等を半ば強制的に行なうので、世界に渡って爆発的に数を増やしていきました。東京では、もともとその地にあった普通の教会に、彼らのグループが入り込み半ばのっとられる形で、最大1000人規模の教会にまでなったのです。

今、この教会は、幹部がその過ちを認めたことで、内部的にもその問題が浮き彫りになる形になり、以前とは変わったと聞いています。牧師は辞任、かなりの人数の人たちが教会から離れたようです。しかし、その釈明文などを読む限り、「イエスの弟子」になるという弟子訓練制度や組織、また指導者の高慢さに問題があったと捉えているようです。
しかし、問題の根源は、制度でも指導者の高慢でもなく、福音の本質である「信仰のみによる救い」を否定していたことに他ならないのです。
その誤りや重大性をどこまで理解しているかは、実際のところわかりません。いや、認められないのかもしれません。それまでキリスト教ではなかったわけですから。

彼らにとっても、大きな傷となっているのは確かです。今度こそ、イエス・キリストの十字架による赦しと愛を受けて、その傷が癒されていくことを祈るばかりです。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。エペソ 2:8~9

You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>