「教会で起きるマインドコントロール」 (8)  間違いだらけの聖書解釈 「疑うことは、不信仰???」

 次に取り上げようとしていたのは、世界宣教命令だったのですが、その前に「疑う」事について触れておきたいと思います。

私は、これまではほとんど意識せずに、自分の神学的な立場から書いていたんですが、しかし、メールなどで質問や感想などをいただいて、このサイトをご覧になって下さっている方は、当然、福音派の方もいれば、聖霊派の方もいるし、中には、リベラル派の方もいれば、クリスチャンではない方もいらっしゃると思います。今更ですが。。。(笑)
それぞれに神学的な立場があり、立場の違いによって若干、聖書の見方、解釈も違ってくるかと思います。ですので、私の書いている文章の中で、「おかしいな」と疑問が生じることもあると思います。

次に取り上げようとしている「世界宣教命令」は、イエス・キリストが復活した時の出来事です。福音派や聖霊派では、復活を歴史的な事実として受け止めています。しかし、一方、リベラル派の場合では、それは歴史的な事実ではなく信仰的な事実、すなわち信仰によって見た事実、一つの伝説のように受け止める方が普通だと思います。クリスチャンではない方にしてみれば、まず復活なんて、そんな話自体おかしいと思うことでしょう。

しかし、ここでは、まず聖書の伝えていることをそのままに読み取ることを原則とさせてください。少なくともそれが聖書本文から読み取れること、聖書の主張なのです。
例えば、それが事実であるか事実でないかとかの判断は、聖書の内容を受け取った後の段階、それは、それぞれ各個人の判断によると思います。

●時には、疑うことも…

「信仰」と「疑う」ことは、一見、相反するようですが、本当のことを追い求めていく時に疑うことは必要です。
まあ確かに、疑ってばかりいて、何も信じられないというのであれば、ちょっと寂しい話かもしれませんが、しかし、主イエス自身は、私たちが疑っているからといって、完全に避けて通るお方ではなかったのです。
逆に、マインド・コントロールの支配が高まるほど、信者に対してこの「疑う」ということを不信仰だと非難し、疑問に思うことすら否定していく傾向にあります
しかし、決して盲信であってはいけないなと思うのです。

仮に、聖書自体に全く誤りがなかったとしても、私たち人間の理解には必ず盲点や間違いもあるはずです。たとえ、聖書を完璧に正しく理解できたとしても、実は、神のすべてを理解できるわけでもありません。私も、自分自身の聖書理解や、神学的な立場も絶対だとは思っていません。むしろ、メッセージの原稿を用意する時も、こういった文章を書く時も、とりわけ聖書を扱う時は、まず疑ってかかります。

もし、疑う者が一人もいなかったとしたなら、何か間違いやミスがあったとしても、わからないままです。ですが、たとえどんなに疑いに疑ったとしても、もしそれが本当のことであれば、事実は事実、変わらないのです。

●疑いの中に現れた主イエス

マタイ 28:16~17
しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

これはマタイによる福音書の最後、宣教命令の直前の記事ですが、復活したイエス・キリストに出会った時に、「ある者は疑った」とあります。
もし、この復活が作り話で、読者に信じさせようとする意図があるものだとしたら、ここに、あえて「疑う者」を登場させる必要があるのかな…って気がするんですよね。むしろ復活は、その場にいた誰の目にも確かな事実であったと強く主張するような気がします。
「しかし、ある者は疑った。」
確かに、科学が発達していようがいまいが、死んだ人間がよみがえる、それは今も昔も信じられないような出来事です。
もし私が死んで、3日目か何日目かに、皆さんの目の前に現れたとするならば、みなさんもまず、疑うと思うのです。自分の目を疑う、夢じゃないかと疑う、そっくりさんじゃないかと疑う、逆に、実は死んでいなかったのかと死の方を疑う、とにかく疑うと思うんですね。
「しかし、ある者は疑った。」何気なく書かれた短い一文ですが、私なんかは、ここにリアリティを感じます。

そして、これが今回のポイントですが、その「疑う者」の前にも、復活の主イエスは確かに現れているのです。

疑うといえば、弟子の一人でトマスが有名ですね。

ヨハネ 20:25
…それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

私に言わせれば、彼の反応は、当然の感覚です。むしろ周りに流されず、自分の目と手で確かめるまでは信じないという彼は、ちゃんと真実を追究しようとする目を持っていると思うのです。彼もまた、他の弟子たちと同様に、復活の主に会って確かめたかったのかもしれません。

その信じないトマス、疑う者を、復活の主は拒否したのかというと、決して、そうではないのです。トマスの前にも、ちゃんと現れて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」…と、招いたのです。

ヨハネ 20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

さて、皆さんは、この時、主イエスが、疑っていたトマスのことを、不信仰だとやや非難しているか、ちょっとがっかりしたか、見て信じたことを否定しているかのように聞こえるでしょうか…。
「見ずに信じることこそ信仰」そういうような理解、解釈もあると思います。

しかし、それが私には疑問なのです。私は、この時、主イエスが笑っていたんじゃないかなと思えてならないのです。…という私は、変でしょうか?

「…彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
マタイ 20:18~19

これは、主イエスが十字架を背負う前に語られた言葉ですが、ヨハネの福音書によれば、なんと弟子たちは、その三日目の日の夕方まで、ユダヤ人を恐れ、家の戸を硬く閉ざしていたというのです。

ヨハネ 20:19~:20
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。
弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。
「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。
弟子たちは、主を見て喜んだ。

復活の事実は、すでにその日の朝、墓まで行った女性たちによって伝えられているのですが、とても復活を信じて待っていたという感じでもありません。それどころか、一連の弟子たちの様子を見ていると、主イエスが本当に十字架を背負うとすら思ってもいなかったように思われます。

しかし、その疑いと不安で硬く閉ざした扉の中に、主イエスは現れてくれたのです。
平安があなたがたにあるように…

 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。
弟子たちは、主を見て喜んだ…!!

実は、トマスに限らず、どいつもこいつも弟子たちはみな、見て信じた類なのです。むしろ、主イエス自ら十字架と復活の事実を見て確かめるように促しているようです。

同じように、見ずに信じられずにいたトマスにも、主イエスは「なんだ、お前も、わたしを見て信じたのか。見ずに信じられる者は、幸いだよな。」、そう言って、笑っていたんじゃないかな…と思うのです。苦笑とでもいいますか…。もちろん、これは推測の域を脱しません。
しかし、確かなのは、決して疑うトマスを拒んではいないのです。

かつて主イエス自身、弟子たちに、こんなことも語っています。

ルカ 10:23~24
それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。
あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。
あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」

見ずに信じられたとしたら、それは幸せなことです。しかし、この目で見て、信じることのできた弟子たちは、もっと幸せな者だったと思うのです。

ヨハネも手紙の冒頭で、このように記しています。
 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて…Ⅰヨハネ 1:1

残念ながら、今、主イエスを、この目で見ることはできません。手で触れることもできません。復活の事実を科学的に実証することは不可能でしょう。
そこで「信じる」ということになるのですが、もしこの主イエスが本当に復活し、今も生きているとするならば、私たちが信じきれず、どんなに疑い、たとえ不安と恐れのために心の扉を閉ざす時があったとしても、主自らがそっとその中に入ってきて、そこにきっと答え、平安をもたらしてくださる、それが私の信じる主イエスというお方です。

そんな主イエスの存在に触れる時、みなさんもまた「見て信じた幸いな者」となるでしょう。私も、見ずに信じられるほどの幸いな者ではなく、どちらかといえば「見て信じた」類の者だと思います。。。^^;
クリスチャンではない方にしてみれば、ますます、おかしなことを言っていることになるかもしれません。

話を戻しますが、マインド・コントロールでは、組織や指導者に対して疑いを持つこと、そういったことを考えることすら否定されていきます。しかし、ぜひ疑問は疑問として持ち続けてください。
私たちがどんなに疑ったとしても、神は神、イエス・キリストはイエス・キリストとして存在できるのです。それが神という存在、本物はどんなに疑っても本物なのです。
「疑う」ということを否定するのは、本物だという自信がないのか、バレてはいけない何かがあるのかわかりませんが、「信仰」という名目で、疑問を封じ込める必要はないはずなのです。

何かおかしいな、疑問だな…と思ったら、
イエス・キリストだったら、なんて言うだろう…とか、
イエス・キリストだったら、どう考えるだろうとか…とか、
イエス・キリストは、どういうお方なのか…、ぜひ納得がいくまで本物のイエス・キリストを追い求めていって欲しいと思います。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。ヘブル 13:8

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