「教会で起きるマインド・コントロール」 (3) マインド・コントロールって…?

 さてさて、マインド・コントロールって、一体なんでしょうね…。

言葉はよく聞くけど、実際のところは、よくわからないという方も多いのではないでしょうか。普通は、カルト集団の一般常識から逸脱した不可解な行動をみて、「マインド・コントロールされている」と判断されているような気がします。

しかし、マインド・コントロールによって、「正しい」ことも、ある意味「聖書的」なこともできるのです。
もちろん、マインド・コントロール的な支配が行なわれている以上、聖書的であるとは絶対にいえません。ところが、表面的な「正しい」行動や「聖書的」な行動が隠れ蓑となり、裏で行なわれているマインド・コントロールが正当化されてしまうこともあるのです。

カルトの定義にもいろいろありますが、最近では、マインド・コントロールや洗脳を用いて指導者や組織の目的を達成しようとする集団を広く「カルト」と呼ぶようになっています。
話を進めていく上では、マインド・コントロールとは何か、一回は触れておく必要があると思います。ちょっと、話は難しくなるかもしれませんが、「マインド・コントロール」のために苦しんでいる人の事を、少しでも理解していただければと思うのです。
しかし、専門的なことは専門の先生が色々なところで説明してくれていることですので、ここでは簡単に説明することにします。

■マインド・コントロールの問題点

マインド・コントロールを一言で言うなら、

「組織やある特定の第三者が、人間が抱く依存心や恐怖心などを巧みに利用しながら人を支配し、自分で考えたり、判断したりする自由な思考を放棄させ、第三者の意志を自分の意志かのように行動させていくこと」

という事になるかと思います。

…といっても、まだよくわからないので、大胆なくらいに簡単に言ってしまえば、
各個人に考えさせない、判断させないようにさせて、指導者の意志を実行させることになります。

マインド・コントロールの場合には、指導者や組織の決定、指示は絶対化させていきます。自分の考えや意見とは異なった時に、反対意見をいうことはもちろん、断ったり、考えたりすることすら許されなくなります。時に人格までもが否定されていくのです。
このために心に様々な傷を負う人が発生します。これが問題なのです。

ひとつだけ注意してほしいのは、第三者の意志を自分の意志として行動すること自体が、必ずしも問題とは限らないということです。

例えば仕事をしていく上では、自分の意志とは違っていても、会社や依頼人の意志を実行しなくてはならないこともあります。しかし、だからといって必ずしもマインド・コントロールというわけではありません(マインド・コントロールの場合もあるのかもしれませんが…)。
自分がどんなにいいと思ってしたことでも、もし依頼人の意向と異なっていれば、正当な評価や報酬は受けられないんですよね。それが仕事ですし、だからストレスもかかるのですが、どんなに嫌な仕事であっても、一時的なもので、終わってさえしまえば、その拘束からは解放されます。
また、もしどうしても納得がいかなければ、その仕事を請けない、会社を辞めるという選択もないわけではありません。最終的に行動を決定しているのは、あくまで自分です。

ですので、教会にあっても、指導者や教会で自分の考えとは違うことが要求されたからといって、すべてマインド・コントロールになるというわけではありません。決して、安易にマインド・コントロールだとか、カルトだとか、レッテルを貼らないでくださいね。
逆に、もし、何が何でも自分の意見だけを押し通そうとするのであれば、それこそマインド・コントロールをする指導者と同じになってしまいます。
時と場合にもよりますが、基本的に自分の意見を述べたり質問したりすることは自由です。団体での行動の中には、最低限、お互いに守るべきルールというか約束事は存在するものですが、しかし、もしその範疇を超えて、自分にはできないな、気が進まないな…と思うような依頼があったとしても、断ることは可能です。

ところが、マインド・コントロールの場合には、それらが一切できなくなるのです。

■マインド・コントロールと「正しさ」

マインド・コントロールでも、正しいことをするなら、問題ないように思う人もいるかもしれません。しかし、そこが、もうすでにトリックなんです。
詐欺師でも人を信用させる(騙す)ためには、「正しい」こともしますよね。カルトだとわかって、わざわざマインド・コントロールをかけてもらいに行く人はいないのです。
「正しい」といっても、本当に正しいこととは限らないのです。より多くの人を集める(マインド・コントロール)するために、「正しい」事も行なわれるのです。

しかし、その「正しさ」は、自由な意思から生まれているわけではなく、第三者の都合のいいようにコントロールされているだけなのです。
指導者や組織の指示は、半ば絶対的に「正しい」こととされます。裏を返せば、組織の指示に従わない、まして逆らうことは、絶対的な「悪」または「罪」とみなされてしまうのです。もし組織のいう「正しさ」に反発心や疑いが起きたら、反発心や疑いを持つ自分が悪い、自分を責めるようにも仕組まれています。

そればかりか、もし「喜んで」従うことが組織にとって「正しい」ことであれば、本人も「喜んで」取り組むようになります。本人も確かに「喜んでいる」と言います。しかし、実際に自分のうちから自然と溢れでた喜びとは違うのです。恐るべきことに、感情ですらコントロールされているのです。

当然、無理があるので、従いきれない人はでてきます。隠れた背後で、組織に批判的な人、指示通りにできない人、すなわちマインド・コントロールされきらなかった人は、傷つけられたり、悩んだり、時に人格までをも否定されていることがあるのです。

しかし、そのようなことも外面的な「正しさ」によって、正当化させてしまうのです。逆に「自分たちこそ神に忠実である。自分たちこそ聖書的である」かのように正当性を訴えることができます。それがまた、さらなるマインド・コントロールに利用されてもいくのです。

「嘘」とも違う、「虚」の世界、まさにトリックなのです。
表面的には「正しい」ことが行われ、「聖書的」であるように見えても、隠れた本質的な部分において決定的に異なっている場合もありうるのです。
私たちは、その本質を見極める目を養う必要があるのです。

■まず福音の本質をしっかりと…

マインド・コントロールでは、最終的に行動をコントロールするわけですから、「行ない」が求められることになります。
しかし、繰り返しになりますが、福音の本質は「キリストを信じる信仰による救い」です。それは信じる前も後も変わる事がありません。きっちりとその原則をつかむことです。
しかし、もし入信後に、あたかも正しい行ないをしていかないと救いが取り消されてしまうかのように語られてしまうのであれば、福音とは全く異なる異質なもの ― 律法主義 ― になります。

念のため、はっきりいいますが、確かに罪は罪です。私にも罪があります。「義人はいない、ひとりもいない。すべての者が罪に定められている。」 これが聖書の宣言です。行ないによっては誰一人として「正しい」といえる人はいないのです。であるからこそ、私たちには「救い」が必要だし、キリストの十字架が必要だったんですよね。
もし行ないによって「正しさ」が得られるとしたなら、キリストの十字架は、無意味なものになるのです。

救われるためにではなく、救われたからこそ、あくまで自発的・自主的に行うのがクリスチャンの行ない、愛です。誰にも強制されない分、足りないこともあるかもしれません。失敗や間違いもあります。決して「正しい」とはいえないかもしれません。

しかし、人を傷つけてしまう「正しさ」よりも、自分なりに、自分らしく、神様を愛し、人を愛する、真実な「愛」を追い求めていって欲しいと思います。

…人は律法の行ないによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
ガラテヤ 2:16

●参考サイト
http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/
参考書籍にも上げている「『信仰』という名の虐待」の著者の一人でもある札幌・マインド・コントロール研究所のパスカル・ズィヴィー先生のホームページ
主にカルト被害者のためのカウンセリングが目的のホームページですが、マインド・コントロールやカルトについて非常にわかりやすく定義されています。

●参考書籍
「『信仰』という名の虐待」 マインド・コントロール研究所編
パスカル・ズィヴィー、福沢満雄、志村真共者
「教会がカルト化するとき」 ウィリアム・ウッド著
ともに、いのちのことば社
キリスト教会内で起こるマインド・コントロール、カルトの問題にスポットをあてて、わかりやすく解説されています。

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