「教会で起きるマインド・コントロール」 (5) 間違いだらけの聖書解釈 「間違っていても、権威に従うべき?」ローマ 13:1~2

●間違いだらけの聖書解釈

さて、ここからが本番みたいなものです。
マインド・コントロールでは、都合のいい聖書の言葉を取り出して、指導者や組織の要求まで「誤りのない神の言葉」として権威づけることがよくあります。
そうすることで、指導者の言うことは正しく、従わなかったり、反論したりすることは、あたかも「神」に逆らうかのように思わせるんですね。

…っていうことは、逆にその誤った部分を、正しく説き明かすことができれば、罠から逃れる一つのきっかけになるのではないかと思うのです。

案外、そういうおかしな聖書解釈って、よくみかけます。カルトだけではないんです。正統とされるキリスト教会でも、間々あるんです。

普通クリスチャンは、聖書は「誤りのない神の言葉」として信じていると思います。しかし、当然のことながら、いくら聖書には間違いがなくても、受け手である人間には、いくらでも間違いは存在しうるのです。
そこで聖書解釈にあたっては、様々な人が、様々な角度から吟味に吟味を重ねており、多くの文献も参考にしながら注意を払っているわけですが、限られた狭い世界に入り込むとき、独自の誤った解釈や引用がなされたとしても、「聖書は誤りのない神の言葉」と信じているがゆえに、誤った解釈まで「誤りのない」ことかのように信じてしまいがちなのです。

聖書に書いてあったら、必ず、従わなければならないのでしょうか?
そんなことはありません。
イエス様が40日40夜断食した後、荒野で悪魔が誘惑をする場面がありますよね。悪魔は何によってイエス様を誘惑しようとしたのでしょう…。やはり、聖書の言葉なのです。
 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
マタイ 4:5~11

聖書の言葉には力がありますから、悪魔も使うんですね。
悪魔もやはり、聖書の都合のいい部分を取り出して、自分に従わせようとしたのです。

聖書に書いてあるから「正しい」とは限らないのです。そのことをも聖書は示してくれているのです。イエス様も、やはり聖書をもって、悪魔の惑わしを切り返しました。

 「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

私たちが従うべき主は、指導者よりもイエス様ですから。
実際に、イエス様は、そんな風には言ってねえべぇ~ってことも、何だか偉そうに語られていることもあるんですね。その間違いがわかってしまえば、おかしな解釈なんですが、わからなければ、悩みにもなります。

ここでは、私自身が実際に見聞きしたマインド・コントロール的な間違った聖書解釈をいくつか取り上げて、その罠から身を避けてもらう一方で、願わくば、本当に聖書が伝えたいことを読み取っていけるように、そのコツまでお伝えできればと思います。

●間違っていても、権威に従うべき?

もし指導者が、自分の思い通りに信徒を動かそうととして、都合のいいような聖書の言葉を利用しても、少し冷静に考えてみると、そのおかしさや矛盾点に気づくこともあると思います。
ところが、この聖書の言葉を根拠に「たとえ間違っていても指導者に従うべき」なんて無茶苦茶なことが教えられることもあるのです。

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
ローマ 13:1~:2

詳しくはあとで説明しますが、もちろん、誤った解釈というか、従わせるために都合のいいように聖書の言葉を引用しているだけです。

私自身が見聞きした範囲では、指導者ではなく、信徒リーダー的な存在の人が使うのを聞いています。カルトではなく、正統的な教会内でです。

しかも、不思議なことに、全く別々の場所で、この誤った解釈が語られているのです。おそらく誰か先輩信徒から、そのように教えられてきたのでしょう。誰かが疑問や反発が起きた時、そうやって抑えようとしてしまうのです。そのようにして、人伝に広まっているんだと思います。
しかし、これでは自分の思考をストップさせて、理屈抜きに指導者の指示に従うことをよしとする典型的なマインド・コントロールになってしまうのです。

●文脈による聖書読解を

聖書の言葉と言うのは、比較的一文一節だけが抜きだされて、語られてしまう事が多いように思います。もちろん、その一文で意味が通る、全体を要約しているような結論的一節であれば問題ないのですが、例えば、起承転結ある文章のうち「転」にあたる部分だけが抜き出されて、それが絶対的な真理かのように説かれてしまったら、どうなるでしょう…。
もとは聖書の言葉であったとしても、聖書記者も神様も考えても見なかったような全く違う「教え」ができてしまうのです。
逆に、聖書にはいろんな言葉が有りますから、自分の意見を通すために都合のいい言葉を抜き出してくることもできてしまいます。

しかし、どんな文章であってもその一文の意味は、前後の文脈によって決まります。これが文章読解の第一原則です。どんな論文でも手紙でも、ある一文だけが抜粋されて、その意味が吟味されることはありません。

そこで、私たちは、必ず前後の文脈の流れ、さらには聖書全体から一節の意味を読み取っていく必要があるのです。

この言葉を続きには、こうあります。

13:4 …彼(上に立つ権威)は無意味に剣を帯びてはいないからです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです…

つまり、ここで直接的に言われている「上に立つ権威」とは、教会の指導者のことではなく、剣を帯びている者であり、税金を納める相手、即ち国家であり、この世の支配者、当時で言えば、ローマ皇帝という事になります。

そのローマ皇帝が、皇帝崇拝を命じ、やがては剣をもって、本格的なキリスト教迫害に乗り出すようになるわけですが、「上に立つ権威」が、キリスト信仰を捨て去ることを要求してきたとしたなら、信仰を捨てるべきなのでしょうか…。

もちろん、そういうことでは、ないんですよね…。
少し冷静になって考えて見ればわかることなのですが、それを考えさせなくさせるのがマインド・コントロールなのです。

この直前では、復讐は神に任せて、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。 (ローマ12:21)」ということが書かれています。その文脈の流れの中で、「上に立つ権威に従いなさい」ということも語られているのです。
もし「上に立つ権威」が、例えば皇帝崇拝や、キリスト信仰を捨て去るような命令してきたとしても、私たちは自由意志の元、従わなくても構いません。
しかし、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
「皇帝は神ではない」とか、「イエス様こそ王だ」とか言って、ローマの法律には一切従わなくてもいいとか、税金を払わなくてもいいとか、そんなことはないよ…ってことなんですね。

13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

通常の一国民としての義務を果たす、ごく通常の法を守るという事、それがここで薦められている「上に立つ権威に従う」ということなのです。
まあ、たとえて言うなら、海老沢会長がふてぶてしかったとしてもNHKの受信料は払うべき、国会議員が未納であっても国民年金は払うべきということですかね。

この前、静のコンサートのお手伝いをしてくれている方が、奉仕の時、会場の前に車を止めておき、しっかり駐禁をとられてしまいました。。。。
やっぱり、車は、駐車場に入れるべきですね。
「人はみな、道交法にも従うべきです。彼らは無意味にチョークを持っていないからです。」ということです。。。。^^;

というわけで、この箇所は絶対的な真理ではなく、あくまで一般論です。
この聖書箇所を絶対化させて「間違っていても指導者に従うべき」などとは言えないし、それ自体、間違った聖書解釈ですので、当然、従う必要は更々ありません。

大体、 イエス様も、このように言っていますね。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マルコ 10:42~45

…って、「信徒たちは、みな指導者に仕えるべき」でも、「指導者は数多く仕えているから、従うべき」というわけでも、ありませんよ。弟子たちは、キリストの昇天後、まさに教会の指導的立場に着く人たちです。将来の指導者に向けて、「みなに仕える者になりなさい。」と、言っているわけですから、平たく言えば、偉くはなるなよってことですね。

…というわけで、もし教会の中で「上に立てられた権威に従うべき」という指導があるとすれば、それは適切な指導のあり方とはいえません。ただし、指導する立場の人も、そうとは気づかずに、同じように指導されてきたという事はありえると思います。
もし、それが教会全体で認められている指導というか解釈でしたら、まあ、ちょっと危ないと考えたほうがいいかもしれません。。。。

…なんてことをいうとですとね。指導者に従わなくてもいいとのかと言われてしまう事があるんですが、そんなことはありませんので。。。

間違っているからと言って、むやみやたらに反発していいわけではありませんし、どんなに間違っている…と思っても、実は自分自身が間違っているということもありえますよね。
そこらへんは謙虚に、他の書籍やサイトを参考にしたり、必要があれば外部の先生に相談するなどして、あくまでも愛だけは忘れずに接してくださいね。
この後に出てきます一文こそ、この一連の流れの中で、パウロが一番訴えたい結論でもあります。

13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。
13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

神の願いは、私たちが互いに「愛する」ということに尽きます。
とはいえ、愛する…って、難しい事がありますよね。
命令や強制によって「正しい」ことはできたとしても、「愛する」ってことは出来ないんです。なぜなら、愛は、自由、自発的に湧きあがって来る想いであり、それに伴う行為だからです。
誰しもが我がままさを持っていますし、必ず、限界もあります。その点にあっては、牧師であれ、信徒であれ、私たちは謙虚になる必要がありますし、今だ発展途上なのです。
しかし、その不完全な私のことをもイエス・キリストは愛してくれているんですよね。
そんなキリストの愛が私たちの心に注がれる時、不思議と、この愛に欠けた私の心にも人を愛する思いが湧きあがって来るのです。愛を教えてくれるのは、愛だけです。

また、一人一人、個性も、持てる能力も違います。できること、できないことも、人それぞれあります。ですから、役割や愛し方もいろいろです。愛するということには、こうすれば「間違いない」というような方程式がないのです。
それぞれが、特徴をいかした愛し方をしていくためにも、自由が必要なのです。
教会の中では、誰が偉くて、誰に従うべきかではなく、一人一人が、キリストの赦しと愛と自由の中で、自分なりに、自分らしく、自分にできることをもって、愛を与えあっていくことなんですね。
もしお互いに「愛する」という共通の目標に立っているなら、細かい点では違いがあったとしても、大きな目的、方向性にあっては、自然と一致してくるものです。

健全な牧師先生であれば、決して、この世の支配者のような権威によって「上に立つ権威に従え」とか、まして「間違っていても指導者に従うべき」というような横暴な権力は振いません。
むしろ、自分自身の不完全さを十分理解した上で、牧会という大変な役割のために仕えています。そういった先生には、ぜひ自分のもてる愛をもって仕えていっていただきたいと思います。

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