「教会で起きるマインドコントロール」 (7)  間違いだらけの聖書解釈 「ことさらに罪を犯せば、地獄に行く??」

●絶対的に正しい教会は存在しない

本題に行く前に、最近、とあるサイトのBBSでこんな発言を見つけました。ずいぶん前に書き込まれたものですが、教会で起きるマインド・コントロールを考える上では、実に重要なポイントをついている発言でしたので、まず紹介しておきます。

「自分が正しい人になるのは簡単です。自分を愛し隣人を悪者とすることです。
隣人を悪者と裁き糾弾します。またできれば自分の愛する人と一緒に隣人を裁きともに糾弾することです。教会でも会社でも学校でも家庭でも近隣社会でもそうです。
自分が正しい人になるのは簡単です。そのためにはイエス・キリストの十字架ふみつければいいのです。
教会でも最近バイブルカルトだの教会のカルト化などいいます。結論は他の教会を糾弾してわが教会は善です。教会のカルト化の論法の本質は他の教会は悪として自分たちにもある問題点を隠し、自分の教会がいかに正しいか論説するものです・・。」
http://cc.msnscache.com/cache.aspx?q=1642114640431&lang=ja-JP&FORM=CVRE10

まず、一つ目のポイントはここです。
「自分が正しい人になるのは簡単です。自分を愛し隣人を悪者とすることです。」

多かれ少なかれ、自分の牧会している教会、自分の通っている教会、自分たちの教会は間違いない、正統的なキリスト教会であるという、そんな意識はどこかにあると思います。
もちろん、より聖書的であろうという意識は非常に大切なのですが、教会とは正しい人の集まりではなく、牧師から信徒まで罪人の集まりのはずです。ところが他者と比べて、自分たちは正しいとしてしまう、そんなところはないでしょうか。
罪人の集まりである以上、間違いもあります。基本的な部分では一致していても、細かい点では数々の神学的な立場が分かれているように、絶対的に正しいという神学も存在していないのです。絶対的に正しいと言えるとすれば、イエス・キリストご自身、神だけです。私たちは正しい者ではなく、十字架によって赦された罪人に過ぎないのです。

にもかかわらず、自分たちは正しいとしてしまう一種の弱さが私たちにはあると思います。

「自分が正しい人になるのは簡単です。そのためにはイエス・キリストの十字架ふみつければいいのです。」

私たちは十字架のゆえに赦された罪人であるにもかかわらず、時に手のひらを返したように、自分たちは正しいと主張し、あそこの教会には問題がある、異端的である、そうやって「正統的なキリスト教会」という枠組みから排除しようとしてしまう傾向があるように思います。特に今回の聖神中央教会のように事件やカルト性が発覚すると特にそうです。

「教会でも最近バイブルカルトだの教会のカルト化などいいます。結論は他の教会を糾弾してわが教会は善です。教会のカルト化の論法の本質は他の教会は悪として自分たちにもある問題点を隠し、自分の教会がいかに正しいか論説するものです・・。」

では、マインド・コントロールやカルト化を見逃していいのか、そのままでいいのかというと、そういうことではないと思います。
これは異端的な教会で起きる問題ではなく、私たち「正統的なキリスト教会」でも起きている問題、私の教会でも起きうる問題として捉えなくてはならないように思えてならないのです。

考えてみてください。
「私たちは、正統的ではなく、マインド・コントロールを利用して信徒を縛り付けるカルト的な教会です。」と公言している教会をご存知でしょうか…。ないと思います。
カルトであっても、なくても、自分たちは「正統的なキリスト教会」と言うのです。いや、むしろ、カルト的な傾向が強いほど、「自分たちこそ正統的なキリスト教会である」、「他の教会は悪として自分たちにもある問題点を隠し、自分の教会がいかに正しいか論説する」のではないでしょうか。

逆に、「他の教会は悪として自分たちにもある問題点を隠し、自分の教会がいかに正しいか論説する」、自分たちこそ正しいと主張してしまう、この姿勢の中に、カルト化してしまう一つの要因が隠されているような気がします。

「義人はいない。ひとりもいない。…」ローマ 3:10

これが聖書の宣言です。
繰り返しになりますが、絶対的に正しいといえる牧師先生もクリスチャンも教会も神学も存在しません。私たちには、必ず間違いがあるのです。その「間違いのある者」即ち「罪人」であることを認められるかどうかです。私たちは多くの間違いがあるにもかかわらず、イエス・キリストの十字架のゆえに、赦されているに過ぎないのです。
絶対的に正しいと言えるとすれば、それは唯一「神」という存在だけなのです。

ローマ 3:23~:26
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義でありまた、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

…ということを踏まえた上で、本題に入りたいと思うのですが、マインド・コントロールをする指導者の中には、信仰による救いといってもある程度行ないも必要である、行ないが伴わなければ救いが取り消される、地獄に行く…かのように半ば脅しをかけて行ないを求めてくることがあります。

●罪を犯し続けると救いが取り消される?

確かに、聖書を読んでいくと、「信仰による救い」とは相反するような聖書の言葉もでてきます。例えば、こんな箇所です。

へブル 10:26
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ヤコブ 2:14
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

確かに、ここだけを取り上げてしまえば、救われるためには行ないも必要であると受け止められますし、神学的にも救いが取り消される可能性を説く、そういう立場の神学もあることはあります。

しかし、その他の圧倒的多くの箇所で語られているのは「行ないによらず、信仰によって救われる」ということであって、こちらが大原則なのです。これを否定する神学はありません。もし救いが取り消されることがあったとしても、それは例外中の例外です。

もし額面どおり、罪を犯し続けたら地獄に行くとしたなら、私なんか真っ先に救いが取り消される一人だと思います。私だけではなく、全ての人間の救いが取り消されることになるでしょう。罪を犯さない人などいません。クリスチャンになってもそうです。牧師であっても罪は犯します。少なくとも、聖書を基準にして「罪」ということを考えればそうなのです。
もし、自分は罪は犯していないと思うのであれば、それは、まだ罪という事に対する理解が乏しいからだと思います。

イエス・キリストの論敵であったパリサイ派、律法主義者という人たちは、クリスチャンなんて足元にも及ばないくらいの厳しさを持って、全生活をかけて聖書的な正しさを追及していた、いわばその道のプロです。その意味では、彼らを馬鹿にはできません。しかし、それでも及ばなかったのです。

●文脈の強弱 原則と例外

文章には、文脈の中に強弱、原則と例外があると思います。
何度も繰り返してしまいますが、福音の大原則は「キリストを信じる信仰による救い」です。ぜひ、その福音と矛盾する箇所が出てきたら、まず「おかしな」と考えてください。そこには何か特殊な事情や、意味合いがあるはずなのです。

へブル 10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

この直前では、やはりイエス・キリストの十字架による罪の赦しが説かれています。その上で、「真理の知識を受けて後、」とあります。

私たちが、本当に、自分の罪を理解し、イエス・キリストの十字架による赦しと愛を心で感じる事ができたなら、心に何ら感動も変化もないということはありません。心が変われば、自然と行ないも変化してきます。
仮にイエス・キリストではなくても、恋人でも友達でも誰かから自分が愛されているという実感がある時には、心は暖かくなりますよね。例えば普段ならイライラするようことでも、その時には赦せちゃったり、逆に自分が替わりにやってやろうか…なんて気分にもなったりしませんか。意識していないかもしれませんが、周りの人から見れば、いわゆるご機嫌な気分になっていると思います。

もし、イエス・キリストの愛に触れることができる健全な福音信仰であれば、その他聖書の何一つ理解していなくても、それだけでも何らかの行ないは伴ってくるものです。
「多く赦された者が、多く愛する」ということ。
もちろん、いきなり全てが変えられるということはないかもしれません。完璧になれるわけでもありません。相変わらず罪も犯してしまいます。自分でも意識しない程度の僅かな行為かもしれません。でも、全く行ないが伴わないということもありえないのです。

ヤコブ書もこの点を指摘しているのです。

ヤコブ 2:14
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

「行ないが伴わなければ、救われない」のではなく、健全な福音信仰であれば、多少なりとも行ないも伴ってくるのです。もし、なんら「行ないが伴わない信仰」、なんら心に影響のない信仰だとするならば、その信仰に人を救う力があるのか…というわけですね。

もし、本当に何も行ないを伴っていないとするならば、それは、健全な福音信仰からは外れて、キリストの愛を実感できずにいる状態なのです。
だとすれば、私たちのすべきことは何ですか。
「行ない」を求めることではなく、やっぱりキリストの愛、福音を語ることですよね。

この当時、早くも福音を曲げてしまう様々な異端も起こっていました。
実際に、霊の救いこそ大切で、肉体はどうせ滅び行くものだから、罪は犯してもかまわない…そんな異端もあったんですね。
ギリシアの思想では霊と肉とを分けて考え、世的な肉体から霊魂が解放されること、いわゆる「解脱」が救いと考えていたようです。
そんなギリシア思想と結びついて、肉体はろくな事がないと極端な禁欲主義に走るグループがいる一方で、逆に、どうせ肉体は滅びるものだから肉欲の思いつくままにして構わないという極端な快楽主義に走るグループも存在していました。
本当に「行ないを伴わない信仰」も存在していたのです。

「罪の赦し」という時に私たちも気をつけなくてはならないのは、「赦し」と「許し」を履き違えてしまうことかもしれません。
律法主義的に「~しなくてはならない」という厳しい束縛の中にあった人は、その反動から、「許されているんだから、なんでもして構わない」という何でもあり的な考えが生まれてきてしまう事があります。
結局、律法主義的なあり方では、自分の抱えている「罪」を無理やり閉じ込めてきただけに過ぎないので、罪の欲求が一気に噴き出してしまうことがあるんですね。これは、一時的には仕方のない面もあるような気がします。
大切なことは、そこで自分の罪を本当に知ることだと思います。

罪は赦されますが、罪が許されているわけではないのです。
当たり前なんですよね。
罪というのは、本来すべきではないこと、だから罪って言うんです。そのすべきではないことをしてしまうのが、私たちなのですが、そういう罪を犯していて、それで本当に幸せかというと、そうでもないのです。
その罪が赦されている、いや赦され続けているのは、本当に神のあわれみ、神の恵みであるのです。
パウロは、「罪が増し加わるところに、恵みも増し加わる」といいましたが、自分の罪が見えてくると、恵みの尊さも見えてきます。

ヘブル書の著者もこのようにまとめています。
10:38 「…わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です

求められているのは、やっぱり信仰なのです。
こんな私では神様に地獄へ落とされるかもしれないと恐れることではないのです。
こんな私たちでも愛し、こんな私たちの罪のために十字架までをも背負って赦しを与えようしているイエス・キリストを信頼し、任せ、安心する。
これこそ信仰ではないですか。

聖書の言葉だからと言って、すべての章節が同じ重み、強さがあるわけではなく、文脈の流れで強弱や、原則と例外もあります。一部だけを抜き出して強調すると、全く逆の意味にもなってしまうのです。

●福音の原点に立ち返って

しかし、なぜ、そういう例外的な箇所をとりあげて、絶対的な真理かのように強調する必要があるのでしょう。

原因の一つは、信徒にもっと熱心に活動してもらいたいとか、少々不真面目な信徒に釘を刺しておきたいとか、何らかの指導者の意図、思惑が働いてしまう事があると思います。

もう一つの原因は、牧師自身が「行ないがともなわければ、救いが取り消される」と教えられて、そう信じている場合です。
あるペンテコステ派の牧師先生が「私は地獄に行きたくないから、イエス様に従っている」という話をしていたことも聞いたことがありますし、ある福音派の牧師からは「地獄に行くのが怖くて、神様に従うことのがどうしていけないの?」と言われた事もあります。
「どうしていけないの?」と聞かれても、どう答えていいのか、福音って一体なんなんでしょうね。。。。これでは、わからなくなっても仕方がありません。

先にも述べたように、牧師であろうと誰であろうと罪を犯さない人はいないのです。聖書の一字一句誤りなく把握し、実行できている人はいません。一生、罪は犯し続けると言っても過言ではないのです。そこに、もし赦しがなくては、牧師としてはもちろん、一人のクリスチャンとして成り立たないのです。
結局は、キリストの十字架による赦しを受けとることでしかないはずなのです。

ところが、「罪を犯し続けると救いが取り消される」「地獄に行く」そういったメッセージを聴く度に、とかく真面目で、自分の罪に敏感な信徒であればあるほど、救いがあたかも「行ない」が必要かのような錯覚を起させてしまう、福音の真理を曲げて伝えてしまうという決定的なミスを犯していることになります。
そればかりか、地獄の恐怖で縛り付けていくマインド・コントロールの世界への一歩を踏み出してしまっているのです。

しかし、福音の世界は、愛、喜び、平安の世界です。
罪深い私を愛し、私のためにも命を懸けて救ってくれたイエス・キリストの愛と、その感動に喜び、生きる世界です。
「多く赦された者が、多く愛する」ということ。
逆説的ですが、自分が正しくあることより、自分がいかに罪深い者であるかを認められる方が素晴らしいことなんですな。神の前で「私は罪人です」と告白することこそ、実は、私たちが神の前に唯一持てる正しさ、真実とはいえないでしょうか。
しかし、イエス・キリストの十字架によって、そんな私の罪も赦されている、その神の恵み、神の愛が本当に心から理解できた時、どんな人でも必ず変えられる、私はそう信じています。
イエス・キリストの福音自体に、そういう力があるのです。

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。Ⅰヨハネ 1:7~10

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