よく電車の広告で「できると願えば、必ずできる」とか、「必ず成功する!成功するための思考法」とかいうようなビジネス成功法みたいな本が宣伝されていますが、私はそういった可能性思考、ポジティブシンキングという奴は苦手です。
なんだか仕事で上司か何かに「もっと、やれ。もっと、がんばれ。」と鞭打たれているみたいで嫌いなんですね。
「何でもできる」とか言われると、逆に「人にはできないことだってありますよ…」とかって思ってしまう。ただの「ひねくれもの」というか、「あまのじゃく」なだけかもしれませんけどね。
そんな私なのですが、「希望」っていいもんだなと思います。特に最近、素直にそう思えるサイトに出会いました。
聖望教会のサイトの掲示板に度々書き込みをしてくれている「kibou」さんのサイト「希望の体験記」です。http://homepage2.nifty.com/kibouweb/
彼女は、脳性マヒで障害があるとのことですが、普通学級で学び、パントマイムに、スキーに、色々なことにトライしています。
彼女の文章を読んでいったときに、「希望っていいものだな」と素直に思えるんですよね。
可能性思考と何が違うのかしらん。。。と思うのですが、まだよくわかりません。よくわからないので、それはわかった時に書くとして、まずは彼女のサイトをご紹介しておきます。
ただ今一つ思うところは、「希望」というのは、「夢」や「願望」ともちょっと違って、周りにいる人にも「希望」を見させてくれるということです。
そもそも決して「できない」ことは決して恥ずかしいことでも劣っていることでもありません。どんな人にも得意不得意、「できない」ことってありますし、「ひとりひとりは各器官、キリストの体なる教会」ということを考えたら、そうだと思います。
「できる、できる」というポジティブな人も、失敗して「できない」ことを気にしないようにしているだけで、結局のところ、自分に「できる」ことをしているんだと思うんですね。
第一、主イエスは、私たちのために十字架に釘付けられたお方です。
人々はののしるわけです。「やい、神の子キリスト。人は救ったが自分は救えない。十字架から降りてみろ。そうすれば信じるから…。」
それでも私たちの救いのために、両手両足を釘付けにされたまま、全く何も「できない」ところでじっと耐えたんですよね。
おなじことが自分に「できる」か…というと、私には「できない」と思います。
「できる」「できない」なんて、何をしたいと思うか価値観や立場が変われば、案外変わってしまうものです。
「希望」というのは、できる、できないという結果は二の次のような気がします。
現実がどうであれ、何かを目指して、将来に目を向ける、小さな一歩を踏み出す…、
「生きる」ということ、そこに「希望」もあるのでしょう。
イエス・キリストも十字架でただ死んでしまったのではなく、人々を愛するがゆえに、最後までキリストとして「生きた」んですよね。いや、今もなお生きている。。。
苦しみや困難に遭うと、たちまち押しつぶされそうにもなる弱い私ですが、その先にある「希望」だけは見失わないようにしたいものです。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
――主の御告げ。――
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ 29:11
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