どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ 15:13 | |||
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罪人の仲間 ルカによる福音書 7:18〜35 |
聖書のテキストはこちら 私は普段、旅行会社で働きながら、こうしてメッセージの奉仕をさせていただいているわけですが、今後の身の降り方について、最近いろいろと考えるところがありまして、いわゆる牧師・伝道師というポジションではなく、信徒伝道者もしくは信徒説教者、あくまで一信徒というポジションに徹底していこうと思っています。そんな自分の感じていることなんかも含めて、お話できたらなと思っています。 さて、今日のタイトルは「罪人の仲間」としました。当時の宗教家たちは、イエスのことを『食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と非難したわけですけども、その評価自体は強ち間違ったことではなくて、イエス自身「わたしは義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と、まさしく「罪人の仲間」、「罪人の友」となられたお方です。 これはまあ有名な話というか、よく語られる話なんですけれども、今回は、ちょっと視点を広げて、その「罪人の仲間」と呼ばれたイエスの周辺にいた人々のことも含めて考えて見たいと思います。 まず最初に、ここではバプテスマのヨハネ(洗礼者のヨハネ)との対比の中で語られているわけですが、そのヨハネという存在に注目していきたいと思います。 ●バプテスマのヨハネの存在理由 バプテスマのヨハネという人は、イエスがキリストとしての公生涯…公の活動に入る前に、その先駆けとして、罪の悔い改めを説き、バプテスマを授け、間もなく救い主が訪れることを預言していた人物です。まさしく旧約律法時代の集大成とも言うべき、最大の預言者、イエス様に言わせれば、それ以上の人物ということになります。 そして、イエスの姿を見たときに、はばからず「見よ。神の小羊」と、イエスこそ来たるべきキリストであると宣言した、そのヨハネだったはずなのですが、なぜか、ここでは、弟子を遣わして 『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』 と、尋ねてくるのです。いったい、どうしたというのでしょうか…。 それは、ヨハネの救い主に対する理解に鍵がありそうです。ルカの福音書3章で、ヨハネはやがて来られる救い主について、このように紹介しています。 3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 こうしてみると、ヨハネが描いていた救い主、キリストのイメージは、聖霊と火で焼き尽くす、いわば裁き主のイメージが強いのです。 それは当時、イスラエルを牛耳っていたローマや、腐敗していたユダヤの宗教政治家、そういった悪を滅ぼすことで、イスラエルの民を救う…これが一般的な救い主の理解であったし、バプテスマのヨハネの理解も、それに近いものがあったようです。 ところが、イエスの様子を聞くときに、どうも聖霊と火で焼き尽くす様子がない。そこで弟子たちを送って尋ねたわけですが、つまり、バプテスマのヨハネも「罪人の仲間」としての救い主の姿を理解できていなかったわけですね。 まして、やがてイエス自らが、多くの人の罪を担って十字架を背負おうとしている、裁くべきはずの方が裁かれようとしている、それが神が選んだ救いの手段だと予想だにしていなかったわけです。ですので、ヨハネは新約最初の預言者ではなく、あくまで旧約最後の預言者であったといえます。 ですので、イエスは、ヨハネにそのありのままを伝えるようにと命じているわけですね。 7:22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。 7:23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 決して、裁きが目的ではない、救いを必要としている人に救いが届けられる…これこそ、救い主の姿であることを伝えさせるのです。 しかし、一方で民衆に対しては、「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。」と、問いかけていくのです。 7:26 …預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。 7:27 その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。 すると、救い主の到来、新約時代の幕開けに、神は、厳しい旧約律法時代の集大成ともいうべき預言者、このバプテスマのヨハネという存在を備えたことになります。 7:28 あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。 7:29 ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。 主イエスは、このバプテスマのヨハネが、人間的には最も優れた人物であると評価した上で、その彼からバプテスマを受けた人たち、そこにはまさにローマの手先となった罪人の代表格ともいえる取税人もいたし、ここには書かれていませんが遊女たちや、さらにとんでもない罪人もいたと思います。でも、彼らは、神が正しいことを認めた。言い方を変えれば、自分の罪深さを認めた。その彼らの方がさらに優れているというのです。 私たちに、本当に必要なこと。 まず第一に、本当に「神の正しい」ことを認める。神が正しく、自分は罪人であることを認めるということかもしれません。その時に、初めて神の救いを求める心、神のあわれみを知る心、謙虚さというものも生まれてくるんですね。 ここに新約時代の幕開けに、旧約律法時代の最後の預言者としてのバプテスマのヨハネの存在理由が、はっきりと見えるわけです。 ●「自分は正しい」としていたパリサイ派の人たち 7:30 これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。 私たち、特に日本人って、正しいことを追い求める性質があるような気がするんですね。 正しい答えであったり、正しいやり方であったり、正しい何かです。 もちろん正しいことをするのは、いいことなんですよ。でも、それで「自分が正しい」と思ってしまうと、人を非難してしまう、さらには神の御心まで拒んでしまう事もあるんですね。 今の会社では、役員クラスはみな韓国人で、スタッフの中にも韓国人がいますが、韓国人というのは、ケンチャナヨ精神というのがありまして、細かいことは気にしない、失敗を気にしない、とりあえずやって見る…という性質があるんですね。 やって見て問題があったら、その時、考えればいいじゃない…みたいな? ところが、これが、日本人には赦せないというか、受けが悪かったりするんですよね。 日本人だったら、特に仕事では、とにかく念密に計画を立てて、失敗しないように事を進めるじゃないですか。そこが日本人の緻密さで、いいところでもあるのと同時に、なかなか話が進まなかったり、本当に些細なことでも不満に思ったりしてしまうのではないかと思います。 教会なんかもね、韓国では、まず大きな会堂を建てちゃうんですよね。あれはね、そのお金が払えるとか、払えないとか、考える前に、建てちゃうの。建てちゃって、当然、払えなくなることもありそうですよね。韓国では、それでもいいんです。その時はその時、御心ではなかったと言って、次のことを考えますから。それでいいんです。韓国ではね。 ところが日本人は、それだと嫌なんですよね。やるからには、きっちり最後までやらないと気がすまないんですよね。その代わり、小さいかもしれないけど、ちゃんと計画を立てて、最後までやり遂げる。これが日本式。 だから、韓国人からすれば、日本人は細かいことばかり言って、先に進まないし、うるさくも思える時があるようです。一方、日本人からすると、韓国人はいい加減で適当に見えてしまうわけですが、これはどちらがいい悪いではなく、国民性の違いなんですよね。お互いに「自分が正しい」と思っている限り、相手に対する批判ばかりで、耳を傾ける、受け入れることが出来なくなってしまうわけです。 しかし、いったん、自分たちの正しさ、自分たちの常識を取り下げて、お互いに相手の言うことに耳を傾けられる時、そこに理解と和解も生まれてくるんですよね。 7:31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。 7:32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』 パリサイ派、律法の専門家たちは、学問的な知識は豊富だったし、実際に実践もしていた人たちです。そういう意味では、クリスチャンなんて足元にも及ばない人たちです。 でも、「自分たちが正しい」と思い込んでいたために、神が備えたバプテスマのヨハネのことも、救い主イエスのことも、批判ばかりして受け入れる事ができなかったわけですね。 7:33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、 7:34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。 まさに、そういって否定ばかりしていたのです。 ●イエスの隣にいた罪人 そして、もう一人、隠れた登場人物を紹介しておきたいのですが、この「罪人の仲間だ」と呼ばれたイエスですが、その隣には、本当に大酒のみの食いしん坊、罪人本体もいたという事なんですね。 罪人である自分と一緒に酒を酌み交わしたばっかりに、イエスまで「罪人の仲間だ」と野次られてしまう…そんな、罪人本体も確かに存在しているのです。 『食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』 しかし、そんな野次などかまわず、隣に居てくれるイエスの存在に、この罪人本体たちは神の愛を感じ取っていくわけです。 さて、バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者だったわけですが、新約時代にあっても、神が特別に備えた神の器、律法の変わりに、新しい約束、福音を携えて、主の道をまっすぐに備えるために立てられた特別な神の器って存在していると思います。 その姿、働き、生き様を見た時に、私たちがどうあるべきか、何が正しいことなのか、言葉で何かを教えるより前に、まさに手本のように自らの生き方によって示してくれる人。そういう存在。まさしく、「先生」ですよね。そういう存在っているし、必要なんだよなって思うんです。じゃないと私たちは、本当に正しいことってわからなくなると思う。 でも、必ずしも、誰しもが「先生」になれるのかというと、そうでもないんですよ。私もね、メッセージをしているというだけで、「竹下先生」なんて呼ばれてしまうんですよね。でも、結構、それって悩みというか、困っていまして…。私が先生だったら、皆さんを躓かせちゃうと思うんですよね。 メッセンジャーというと、何か特別な働きかのように思われるかもしれないけど、ホテルの中で誰にでもできる一番身分の低い仕事がメッセンジャーなんです。依頼人から頼まれたメッセージを、お客さんにそのままを届ける、それがメッセンジャーの仕事。聖書の場合には多少の神学的な知識や文章能力も必要かもしれませんが、基本は聖書に書いてあることを、そのまま皆さんに伝える、これが仕事です。メッセージをしているからといって、何か優れているわけではないんです。 しかし、本当に備えられた神の器、「先生」と呼ばれる人たちには、主の道をまっすぐに整える、言葉、行動、姿勢にあってプラス・アルファーも持っているように思うんですよ。 では、私はどうなのかな…って見た時に、私はそんな「先生」と呼ばれるような器じゃないし、なれないし。自分自身の罪と面と向かった時に、そこは事実として、認めざるを得なかったんですよね。 私は何者かというと、罪人の仲間だといわれたイエスの横にいる罪人本体、取税人であり、大酒のみの食いしん坊、ついでにタバコまで吸っている、ただの罪人にしか過ぎないんです。 でも、そんな罪人である私の横にいて、たとえ人から「罪人の仲間だ」と言われても、それでも「俺はお前の友だよ」と、そう語りかけてくれる、そんなイエスと言う存在が、大好きで、嬉しくて、そんなイエスのことを伝えたい、ただ、それだけなんですよね。 だから、私を「先生」だと思って、手本にしちゃいけないの。 でも、赦される限り、教会かもしれないし、居酒屋かもしれないんだけど、この「罪人の仲間」となってくれたイエスのことは語っていこうと思いますよ。 今までの日本のキリスト教会・クリスチャンは、どちらかといえば、誰しもがバプテスマのヨハネ的な、清く正しく美しい、特別に備えられた神の器になることを目指してきたようなところがあると思います。 確かに、そういう存在は必要だし、実際にいるんです。でも、圧倒的な多数は罪人にしか過ぎず、そんな自分を否定してしまったり、隠してきたり、勝手にクリスチャン失格だなんて苦しんだり、開き直ったりすることも多いような気がするんですよね。 しかし、皆さんがたとえどんなに罪深かったとしても、それでも、いつでもすぐ隣にいて、俺はお前の友だよと語りかけてくれる…それが、イエス・キリストです。 目には見えませんが、今も生きていて、たとえ人から「あれは罪人の仲間だ」と言われても、そのためにあのカルバリの十字架を背負い、両手両足、釘付けされることになったとしても、私の横だけじゃない、皆さん一人一人の隣に、仲間として、友として、一緒にいてくれるのがイエスという存在。そのイエスという存在に、ぜひ目を留めていって欲しいと思うのです。 これからだって、罪を犯すことはあるかも…って、ありますよ。私もそうです。 失敗することもある、悩むこともある、中途半端な自分が嫌になることもあるし、罪を犯してしまうこともある…、それでも自分の隣にいてくれるイエスから、自分がどれほど愛されているかを知り、そのことを喜び、そして、自分なりに、自分らしく、人を愛することを学んでいきたいなと、私自身が思う今日この頃なのです。 |