さて、最近このコラムでは、マインド・コントロール、カルトについて取り上げていますが、そーゆー話ばかりですと、なんだか心が沈んで来るような気がします。
「言葉」と言うものは不思議なものでして、どんな言葉を発しているか、また聞いているかで、気分がかなり変わってくるなんことがあるようです。
閑話休題で、今日はそんな「言葉」について取り上げてみようかなと思います。
「言葉」といえば、ヨハネの福音書のはじめにこんな言葉がありますね。
はじめに、言があった
言は神とともにあった
言は神であった
聖書では、はじめに神が言葉によって、この地球も宇宙も人間も創られたということが書かれています。
神は、光あれといわれた。すると光があった…。
神は、それを見て、よしとされた。 創世記 1:3
私たち人間も含めて、ただ偶然、偶発的に、うじ虫が湧いて出てくるかのように存在しているわけではなく、創造主なる神の、明確な意思や目的、はじめに「言葉」があって存在している…、
聖書はそのように語っているわけですが、それは、まさに命を生み出す、愛の言葉だったように思います。
私たち人間の言葉であっても、言葉には力があって、人を生かすこともできるし、極端な話、殺すこともできるんです。
あるときには、励ましをうけたり、慰めを受けたり、反対に、誰かが発した言葉によって、傷ついてみたり、悩んだりしますよね。
私たちは家庭でも会社でも、日常生活のあらゆるところで多くの言葉を発するわけで、言葉によって生活をしているといっても過言ではないと思います。
私たちは普段、一体どんな言葉を発しているでしょうか。。。
フライデーナイトの関根一夫先生が書いた詩でこんなのがあります。
いてくれてありがとう
涙流した時にも
いてくれてありがとう
あなたの微笑み
言い尽くせない感謝を込めて
いてくれてありがとう
いてくれてありがとう…なんて、
なんだか、こっぱずかしくて、普段、言ったこともなければ、聞いたこともない、
どちらかといえば「いなくて結構」なんて言われてしまいそうですが、
「いてくれてありがとう」
そういわれたら、なんだか幸せな気分にさせてくれますよね。
「いてくれてありがとう」という言葉、またそういう思いというものは、
言われた相手だけではなく、実は自分自身にも幸せ、生きる力を与えてくれる言葉ではないかなと思います。
聖書の別の箇所には
「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、
同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。」 ヤコブ 3:9〜10
つまり、同じ口でいい事も悪いことも言っているなんてことも書いてあるわけですが、
まあ、ここの所、仕事で忙しくて、
何で、こんなことまで俺がやらなきゃいけないんだ…?とか、
これで文句言われた日にゃ、ただじゃ置かないぞ…みたいな?
ふつふつと湧き上がってくるものが心にはあるんですね。
ふとすると、人の悪口を言ってしまうのが、正直な私です。
しかし、同じ言葉を発するなら、
「いてくれてありがとう」
人を生かす言葉を多く発していきたいと思うのです。
そのためにも、やっぱり本物の神様の言葉、愛の言葉をたくさん受けて、その「言葉」によって生かされる者でありたいですね。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
見よ…、それは非常によかった…!! 創世記1:31
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