イエスキリストにある希望を届けるホーリーホーププロジェクト
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メッセージ

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宣教命令の心 マタイ28:16〜20
しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


 このシーンはイエス・キリストが復活した、そのあとの出来事ですが、死んだ人がよみがえる、なかなか信じられないという人も多いと思うんですよね。
 よみがえったイエス・キリストを現場で目撃した人たちの中にも、すぐに現実のこととして受け止められなかった人もいたようです。

28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

 私はこれって、当然な反応だと思うんですよね。死んだ人が、よみがえる…ありえない。
 別の箇所では、弟子のトマスが「イエス様の傷跡に、自分の指を差し込んでみるまでは信じられない」…といったとが記録されていますが、ある意味、正直な発言だと思うんです。

信仰の世界に囲まれる時、あたかも疑うことが不信仰、いけないことかのように思えるかもしれません。しかし、もし疑うことが、全く禁じられてしまう、全くなくなってしまうとしたなら、それはマインド・コントロールです。
オウム真理教のサリン事件がありましたけれども、優秀な人たちまでもが、なぜ命令されるままに、地下鉄にサリンを撒いてしまったのか…、それは、彼らが疑うことを否定され、疑う思考能力を奪われていたからです。
 何が本当なのか、それが本物かどうか、しっかり見極めて行く…、そういう意味で疑うことは大切なんですね。

「しかし、ある者は疑った…。」

イエス・キリストを復活した時、それを目の前にしても、疑う者もいた。疑う者がいて、いい。逆説的ですが、ここに、イエス・キリストの復活の信憑性があるように思います。

 目には見えませんが、今日もここにイエス・キリストはおられます。
 それがもし、信仰や観念だけの世界だったらむなしい話です。しかし、本当に事実だとするならば、私たちに対して、何らかのアクションがあるはずです。私たちも、それを受け止める、感じることが出来た時、イエス・キリストの復活が事実であると確信するに至るような気がします。

 さて、今日の本題は、クリスチャンの間では「世界宣教命令」と呼ばれている箇所です。
 時に「大」までついて「世界大宣教命令」なんて呼ばれていますが、やや強調されすぎていると思う時があります。
 神学校に来る人たちや、実際に活動している人にとっては、この宣教命令は使命を与えてくれる言葉だったり、情熱を燃やしてくれる言葉だったりすると思います。だから、ついつい、この宣教命令を取り上げる時、情熱を駆り立てられて『宣教しましょう!』というメッセージをしやすいし、またみなさんも、聞いてきたかもしれません。

しかし、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」

「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのこと」…って、何だったんだろうと考えるとですね、宣教も含まれるかもしれませんが、宣教だけとは限らないですよね。
イエス様は、いろいろなことを教えていますが、その中で最も大切な戒めって何なのか、それをもし一言で言い表すとするならば、どうなるのかというと…
 「思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、知性を尽くして、主なる神を愛しなさい。」
 「また、自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」
愛するということなんです。

 ですから、本当に宣教命令を受け止めるとするならば、「宣教しましょう」「伝道しましょう」ではなくて、まず『あなたがたは、互いに愛し合いなさい』という教え、「私たちは、互いに愛し合いましょう」というメッセージになるはずなのです。

 そこで、今日は「世界大宣教命令」という色眼鏡は一旦外して、この時、この場面で、イエス様はどういう思いで、弟子たちに何を託そうとしているのか、イエス様の心を探っていきたいと思うわけです。

28:18「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

 ここで「権威」…ということが、語られているわけですが、「権威」にもいろいろあるように思います。
 一つは、絶対権力的な「権威」。「権力」に近い意味での「権威」があると思います。
 しかし、私たちのために命を捨て、十字架までをも背負ってしまうイエス様が、そういった権威、権力を振りかざして、弟子たちに宣教させようというお方なのかというと、ちょっと違うよう気がしますね。

イエス様が「権威」ということを出したのには、当時の実情があるんです。
 ユダヤ人は血統、家系を非常に大切にします。
 マタイの福音書の最初を見ていただくと、系図がずらずらと出てくるかと思います。生まれてはじめて新約聖書を渡された人が、まずこの系図を見て、読む気をなくしてしまうというか、一体誰が読むんだろう…と思うんですが、ユダヤ人なんですね。
 特に、ユダヤ人こそ、神の選ばれた民族であるという選民思想の強かった当時のユダヤ人にとって、ユダヤ人以外の外国人が救われるとは、思ってもいない、ありえない、世界宣教なんて考えられない、とんでもない話なわけです。
 そういった、今まで禁止されていたことが行われる時求められるのは、何の「権威」があって、そんなことをするのか…、やっぱり『権威』なんですね。

弟子たちもユダヤ人です。
外国人も救われるんですか。外国人も弟子にしちゃっていいんですか…。
いいんです。
わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
何の権威によって、誰の赦しがあって、ユダヤ人以外の外国人が救われると言うのか…。
イエス・キリストの権威によってです。
権威のあるイエス様の言葉がなければ、遠い遠い日本にまで福音が伝えられてくることは、ありえなかったわけです。

「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

弟子というのは、ようは見習いなわけですが、ここでいう弟子は、何をどう見習うのでしょうか。
1つは、父と子と聖霊との名によって、バプテスマを授ける。
父と子と聖霊、三位一体の神様の愛の交わりの中に、丸ごとすっぽり、入れられることによって。
もう一つは、
わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教える…。
すなわち、弟子の側からすれば、「愛する」ということを学ぶ。それが弟子なんですね。

別の箇所で、イエス様も、こういってます。
「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるだろう…。」

 しかし、愛されるのは楽だけど、いざ、自分が愛を実践しようとしたときに、難しさを覚えることって、多いと思うんですよね。私も、そうです。そういう意味では、私も、まだまだ、教えられる立場、宣教される立場、…見習いの「弟子」なんですね。
 もし、誰かに「愛する」ことを教えようとするならば、まず自分自身に愛がなければ、愛なんて教えられないんですね。斧か何か振りかざして、愛し合え、この野郎!って言ってもですね、見た目、愛し合うかもしれないですが、それは愛ではないですよね。

 そんな不完全な私達が愛しあうためには、どうすればいいのか。ヨハネの福音書でイエス様が言っているのは、まず、わたしの愛、イエス・キリストの愛に留まりなさいということなんです。

見よ。世の終わりまで、いつでも、わたしは、あなたがたとともにいます…

ここでの主語は、「わたし」イエス様ご自身です。
イエス様が、いつでも、私達と共にいてくださる。
もし、私達が、イエス様に必死についていかなかったら、取り残されてしまう、イエス様が離れていくとしたら、大変です。でも、イエス様の方が、私たちと一緒にいてくださるというのです。

 今、この世界を見たときに、いかに私たちが愛し合うということが難しいか、如実にあらわされていると思います。
 イラクの人質事件一つをとっても、日本国内にあって意見が衝突していく中、人質になっている人どころか家族に対してまで非難、中傷の声もいけば、そういった声にも非難は起こるし、それでも解放されて良かったですが、誰がいい悪いとかではなくてですね、何が正しいのか、どうすればいいのかって、わからなくなっているところもあると思うんです。

 それは、まさに私たち人間の罪。私たち、私自身の内にも起こってくる非難や敵対していく心は、まさにイエス・キリストを『十字架に付けろ』と叫んだ人たちの心と同じのような気がします。
 キリストは、そういった非難をすべて受け止めて、ただ十字架を背負っていくわけですが、その願うところは、ただ、私たちが愛し合うこと。その一点に集約されている気がします。
 十字架を背負った時、弟子たちは恐怖のあまり逃げ出しました。でも、イエス様は、そんな彼らのことを決して見捨てることはなかったんです。

 私たちには、愛せない時がある、あるいは、自分自身が神の愛を見失い、教会から離れてしまう時期もあるかもしれない、でも、それでも、わたしはあなたを見捨てず、あなたを捨てない…イエス・キリストは、世の終わりまで、いつでも、私と共にいてくださる…。
 私たちのために、あのカルバリの十字架を背負ってくれたイエス様は、よみがえって、私たちが逃げ出そうが、道を踏み外そうが、その場その場に、一緒にいてくださるんですね。

 そんなイエス・キリストの存在にふと気づく時、そんなイエス・キリストの愛を感じる時、自分自身も大切…、それと同じくらいに、他の周りにいる一人一人もイエス・キリストに愛されている…、そう思う時、自分の心の内にも愛する心が、自然と生まれてくるのではないでしょうか。

フランシスコ・ザビエルと、フランシスコ・カブラル。二人の宣教師がいました。
フランシスコ・ザビエルは有名です。日本人なら、誰でも知っていると思います。
フランシスコ・カブラル、まず、誰も知らないと思います。

織田信長が尾張名古屋の城主となった1549年、ザビエルは日本にやってきました。続けて、日本に来たのが、カブラルです。

ザビエルは、日本人を高く評価しました。特に、日本人の知性を高く評価して、
「日本人は、文化、礼儀、習慣、すべてにおいて、我々以上に優れている。私は、日本人ほど理性的な民族を、世界中に見たことがない」と称えました。
ザビエルの弟子は、ローマにあてて、次のように書き送っています。
「京の都こそは、日本におけるヨーロッパのローマにあたり、科学、見識、文明は、ローマよりも、さらに高尚である。私達は明らかに、日本人よりも、劣っている。私は、日本語を理解し始めてから、かくも世界的に聡明で、明敏な国民はいないであろうと、考えるに至った。ひとたび日本人がキリストの教えに従うなら、日本の教会に勝る教会はないであろうと思われる。」

一方、カブラルの日本人に対する評価は、著しく異なっていました。
「日本の政治は野蛮であり、日本人ほど傲慢で、貪欲で、偽善的な国民はいない。日本人は自尊心が強いから、厳しく取り扱うべきで、西洋人よりも、はるかに低級な人間であることを悟らせるために、高圧的な態度に出るべきで、衣服、食事、睡眠に至るまで、差別待遇をすべきである。」
こうして、カブラルは、日本人がポルトガル語やラテン語を覚えることも嫌い、自らも西洋式の生活を営み、決して日本語も覚えようとはしなかったと言われています。

この時代、日本へは何ヶ月もかけて船でやってくるわけですから、それだけでも命がけだと思うんですよね。そこまでして日本に来ていながら、どこに差があったのでしょうか。
それは愛だと思います。
フランシスコ・ザビエル、彼を動かしていたものは、愛です。
しかし、フランシスコ・カブラル、彼を動かしていたものは、命令に過ぎなかったのです。

ザビエルは、2年半の活動の後、中国の広東へ渡り、病にかかり、その生涯の幕を閉じます。ザビエルが中国に渡ったのは、日本のことを正しく理解するためには、まず、文化のルーツである中国から理解していかなくてはならない…と考えたからでした。

ザビエルのような宣教師の働きを聞くとき、頭が下がるような思いになります。私には絶対にマネ出来ないって思いますもん。その思い、情熱はどこから来ているのかといえば、『宣教命令』というよりは、まず、イエス様に愛されている感動、キリストの愛だと思うんですよね。
パウロも、自分が宣教するわけを、このようにいっています。
 「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」

 キリストの愛を受けた、すべてのクリスチャンが宣教や伝道の働きをするのかというと、そうではありません。中には宣教の働きをする人もいれば、その働きをサポートする人もいます。人の悩みを聞く人もいれば、その場を盛り上げて楽しませてくれる人もいる。
 人それぞれ、個性や能力に応じて、いろいろな愛し方があるはずなのです。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

ユダヤから、世界へ。
どうか、ユダヤ人に限定せず、あらゆる国の人々を、弟子として受け入れてください。
外国人だから駄目と言わず、律法を守っていないから駄目だと言わず、文化が違うから駄目だと言わず、弟子として受け入れてください。
どうぞバプテスマを授けてください。
父が、わたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛しました。
そして、世界の一人一人も、同じように愛されています。
どうか、国境を超え、民族を超え、文化を越えて、あなたがたは、愛し合ってください…。

これが、イエス様の心です。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

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