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「旅行とは、平和産業。平和を祈っていきたい…」
今日、会社の朝礼でスタッフの一人が、そんなことを語っていました。
確かに、旅行と言うものは、平和であればこそ、出かけることもできるし、訪れることもできます。日本にいると、つい「平和」が当たり前のよう思ってしまいがちですが、きわめて貴いものだと思います。
戦後60年、戦争の悲しみや苦しみを知っている方々が減って行く一方で、ニューヨークの9・11テロ以降、テロとの戦い、世界平和への貢献、日本もイラクへの自衛隊派遣と、戦争に対する抵抗感も薄らいできていることもあるような気がします。
私たちは、戦いに勝利することが平和への道であるかのように考えがちなのかもしれません。そして、やがて戦いが終わる日を待ち続けるのです。
しかし、平和と言うものは、武力によって勝ち取るものでも、向こうからやって来るものでもありません。目には目を…でお互いに撃ち続ける限り、憎しみや報復の連鎖は止まることはないのです。
キリスト教の歴史の中でも、数々の戦争を巻き起こしてきた事実があります。「神」の名の下に正当化された戦いは幾たびも繰り返されてきました。今もなお、そうなのかもしれません。
しかし、十字架を背負ったイエス・キリストの本当の願いは、私たちが武力を持って戦うことなのか…というと、かなり疑問です。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 」マタイ 5:9
十字架を背負ったイエス・キリストの姿は、周りからすれば敗北の極みでしょう。しかし、決してただ言いなりになって、十字架を背負ったわけではありません。
人の罪を赦すために十字架を背負う…言葉にしてしまえば簡単ですが、その痛みと苦しみに絶え続けなければならない、それはまさに熾烈な戦いの姿です。
キリストがこの戦いに勝利してくれたからこそ、神の平和がもたらされたのです。
武力を捨て、自らが十字架を背負う…。
常識はずれと言えば、常識はずれ。それは時に耐え難い苦痛も伴う、大変勇気のいる戦い方です。私たちは、そこまでの勇気を、なかなか持てないのです。
しかし、この戦い=十字架にこそ、「平和を作る者」が、「神の子」と呼ばれる所以があるように思うのです。
「平和というものは、当たり前のように存在してるものでも、どこかからやってくるものでもなく、作るものなんだ。」
ニューヨークのクリスチャン画家マコト・フジムラ氏の言葉です。
私たちの日常の間でも、小さな争いごとは起こってくるものです。
武力は使わないまでも、なかなか赦せなかったり、耐えがたいこともあったりするものです。
しかし、くしくも日本も、自らの敗北を認め、武力を捨てることができたとき時から、60年間という平和の時が始まりました。
私たちも、「平和を作る」勇気を失わずにいたいものです。「平和を作る者」は、「幸い」なのですから。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 」マタイ 5:9
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